概要
第二次大戦後の1948年の大韓民国建国以降発生した「済州島四・三事件」や「保導連盟事件」と同様に、韓国軍が自国民を大量虐殺した事件の一つであり、軍による一斉射撃などで一般市民に多数の死者を出した。この光州事件では市民側の目的である民主化達成と軍事政権を倒すことはできなかったが、7年後、1987年に軍事政権側が「6・29民主化宣言」を出し、言論の自由と大統領の直接選挙を認めた。
1979年10月の朴正熙大統領暗殺事件後、韓国では済州道を除く全土に戒厳令こそ敷かれているものの、各種の制限措置が撤廃され、「ソウルの春」と呼ばれることとなる民主化ムードが広まっていた。しかし、韓国軍内では朴正煕時代の体制の転換を図る軍上層部と、朴正煕の軍内親衛グループとして朴の黙認の下結成された中堅幹部勢力「ハナフェ」との対立が表面化する。
そして同年12月、ハナフェの中心人物で国軍保安司令官の全斗煥陸軍少将は、戒厳司令官だった陸軍参謀総長・鄭昇和陸軍大将を逮捕する粛軍クーデターを実行。朴の後任の大統領となった崔圭夏は軍部を掌握できていなかったため、全たちハナフェの圧力に屈してこれを認めざるを得ず、ハナフェたち「新軍部」が軍部の実権を掌握することとなった。
こうした新軍部は朴政権時代に似た軍部独裁を志向していたため、韓国全土では戒厳令撤廃と軍部独裁退陣を訴える学生デモや労働争議が頻発する。一方の全斗煥は陸軍中将に昇進してKCIA(中央情報部)部長も兼任するなど権力基盤を強化し、大統領の座を目前に控えていたが、社会不安の高まりを前にいよいよ新軍部による政権掌握を実現に移そうとしていた。
1980年5月17日、韓国軍は全軍主要指揮官会議を召集。韓国全土への非常戒厳令拡大・国会の解散・国家保衛非常機構の設置を決議し、既に実権を失いかけていた崔圭夏はこれを承認して、政治活動やストライキの禁止・事前検閲の実施・大学の無期限休校を主な内容とする戒厳令布告令第10号を発表した。これが5.17クーデターとも呼ばれる5.17非常戒厳令拡大措置であり、第10号の発表に伴い5月18日午前0時を以って戒厳令は全国に拡大、戒厳司令部は軍部隊を出動させて国会を掌握する傍ら、最大の敵である民主化運動のリーダー・金大中ら政治家26名を学園紛争やストライキの扇動及び権力型不正蓄財容疑で逮捕・拘禁した。
同日、金大中の地盤の一つである光州市で大学を封鎖した陸軍空挺部隊と、これに抗議した学生が自然発生的に衝突した。軍部隊・機動隊の鎮圧活動は次第にエスカレートし、また翌19日にはデモの主体もそれまでの学生から激昂した市民に変わっていった。市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで応戦した。21日に群集に対する空挺部隊の一斉射撃が始まると、市民は郷土予備軍の武器庫を奪取して武装し、これに対抗した。戒厳軍は一時市外に後退して、光州市を封鎖(道路・通信を遮断)、包囲した。
韓国政府は抵抗する光州市民を「スパイに扇動された暴徒」であるとした。韓国メディアは光州で暴動が起きていることを報じた。海外メディアは、ニューヨーク・タイムズのヘンリー・スコット・ストークス東京支局長を始めとして、金大中は「処刑されるべきではない」との社説を掲げ「民主化運動の闘士」であるとの後押しを行った。また、ドイツ公共放送(ARD)東京在住特派員であった西ドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターが事件を報道した。
地元の有力者などで構成された市民収拾対策委員会は戒厳軍側と交渉するも妥結に至らなかった。市民たちは武器を手に入れると韓国軍を相手に銃撃戦を行い、全羅南道道庁を占領した。指導部は闘争派と協商派に分かれて分裂した。5月26日、市民軍は記者会見でアメリカが介入すれば流血事態は阻止できると主張するとともに、同志は死ぬ準備が出来ていると発表した。
結果
結局、一部闘争派を残して自主武装解除を行い、この情報から市民に占拠された全羅南道庁に対する鎮圧命令が下った。5月27日、市民軍の先頭に立って武器倉庫を攻撃したユン・サンウォンを含む市民軍には射殺されるものもあり、韓国軍、警察隊にも死傷者を出しながら鎮圧作戦は終了した。光州市に投入された総兵力数は2万5千人に上っている。
全斗煥は事件後、国家保衛非常対策委員会を組織して政権を掌握し、崔圭夏は政権の実権をも失った。結局、全斗煥は同年8月に陸軍大将に昇進した後予備役編入され、軍部の圧力に耐えきれずに辞任した崔圭夏の後任として第11代大統領に就任。一方の1980年9月17日、金大中は死刑判決が下されるも、民主化運動弾圧として諸外国からの圧力がかけられた結果、1982年に無期懲役に減刑された上でアメリカに事実上亡命させることで刑の執行は停止された。
その後、全斗煥は憲法改正を実施し、翌1981年に大統領に再任されたことで、第五共和国体制をスタートさせることとなった。
当時、事件は「北朝鮮の扇動による暴動」とされたが、粘り強い真相究明の動きの結果、1997年に国の記念日となり、2001年には事件関係者を民主化有功者とする法律が制定。韓国の近代史でもっとも大きな事件の一つ、かつ韓国における民主主義の分岐点となった1987年6月の6月民主抗争の原動力となった。
2004年1月29日、内乱陰謀で死刑判決が下された金大中に対し無罪が宣告された。
後述
2010年代においても韓国では当時の韓国政府と同様に北朝鮮の関与があったとする複数の報道がなされ、それに対する非難の声も多く上がった(後述)。しかし、2017年1月に機密解除されたアメリカ中央情報局(CIA)の機密文書では北朝鮮の関与を否定するなど、事件の原因について対立する説がなされている。
2017年8月、ドイツ公共放送連盟東京特派員のユルゲン・ヒンツペーターらをモデルにして事件を描いた韓国映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』が公開。大ヒットを記録し、同年に最も多く観られた韓国映画となった。
2021年5月27日、朝日新聞は、同紙の大阪本社写真部員と社会部員の2名の記者が事件当時、光州で撮影したカラー写真を含む写真フィルムが大量に見つかったと報じた。