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呂運亨

ようにょん

大韓民国臨時政府に参加していた独立運動家の一人。日本語読みだと「りょ・うんこう」か「ろ・うんきょう」

「日本敗戦後の対日弾圧は、徹底して厳しく、日本の諸君の想像以上の存亡の危機に立つ。朝鮮は形は独立するが、建国の人材に乏しく極東の弱小国にすぎない。この極東の状況は明白だし、この時こそ日韓両相扶け相和すべきの天機。私はその為に全力を尽くす」

(朝鮮ホテルの一室にて、日本の神道思想家葦津珍彦との交流している時の呂運亨がした主張)


概要編集

大韓民国臨時政府のメンバーの一人であり、中国を征伐しなければならないという考えを持っていた反中派の祖父の影響を受けて中国へ亡命した後、南京の大学で勉強していた。

三・一運動の切っ掛けを作った人物ではあるものの、彼と懇談していた日本の知識人は「稀にみる尊敬すべき人格」と絶賛していた。

呂運亨の最大の特徴は人の良さであり、同胞のみならず様々な日本人と交流を深めていた。

独立後の体制作りには日本との提携と日本留学を経験している知日派の力が必要不可欠と彼は考えていたが、勢力を上手くまとめる事が出来なかった。


日本の敗色が濃厚になると独立運動を活発化させつつ、連合国の意図から外れた建国を計画をし、1945年の9月6日に朝鮮人民共和国の樹立を宣言した。

しかし北緯38度線での分割占領を決めていた連合国は自分達の意図から外れた事を良しとせず、北はソ連が、南はアメリカが統治するようになり、朝鮮人民共和国含めた臨時政府はその存在を認められなかった。

その後も政党を建てては政治活動に励んでいたものの、1947年7月19日に暗殺された。

その後の1948年8月15日に李承晩を大統領とする大韓民国の樹立が宣言された。

その一方で、呂運亨らが作った人民委員会(元朝鮮建国準備委員会)はソ連による統治に活用され、朝鮮民主主義人民共和国が建国される事となった。


理想はあったが連携が上手く取れず、他国の事情によって計画が潰れ、日本や知日派の力を借りて体制を作ろうとしていた彼の死後、その想いとはかけ離れた国が出来上がってしまった。



余談編集

因みに呂運亨は第二次世界大戦中には、新聞に「日本軍に志願するべきである」とした朝鮮人に向けた文章を載せていた。

それらの文章を根拠に後の時代の韓国から呂運亨を親日派(韓国で言う所の売国奴)と疑う主張が出た

しかし親日反民族行為真相糾明委員会は大韓民国臨時政府に参加していた事や親日の根拠が一つしかない事を理由に否定した。

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