概要
明治43年(西暦1910年)8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。これにより大韓帝国は消滅し、日本はその領土であった朝鮮半島を領有した。
また「朝鮮併合」や「日韓併合」というとき、条約の締結により大韓帝国が消滅し、朝鮮が日本の領土となった瞬間的事実だけではなく、併合の結果として朝鮮を領有した継続的事実を含意する場合もある。
経緯
朝鮮半島にある「朝鮮」という国は、実質清の属国に近い状況であった。また、李氏朝鮮は(他の国から見れば)まともに統治している状況とは言えず時代錯誤の事大主義を信奉する状況であった。
そのため日本としては朝鮮を勢力圏下に収めるため、まずは朝鮮を清と切り離す必要があった。やがて朝鮮をめぐり日本と清の対立が深まり、日清戦争が勃発した。日清戦争には日本が勝利し、朝鮮における清の影響力は消滅したのだった。
しかし李氏朝鮮は三国干渉(日清戦争参照)で日本の要求を退けたロシアへ接近していく。この頃ロシアは極東への勢力圏の拡大を企図し、朝鮮半島にも近い旅順や大連を支配し満州へ軍を駐留させていた。こうしたロシアの動きに、日本は朝鮮半島の権益が脅かされることを懸念し、両国の対立が深まっていく。そうして発生したのが日露戦争である。
日露戦争中の明治37年8月、日本は韓国と第一次日韓協約を結び、日本人財政顧問を就任させた。
ついで翌年7月、日本はアメリカと桂・タフト協定を結び、日本の韓国に対する、アメリカのフィリピンに対する指導権を相互に承認した。
また8月の第二次日英同盟条約、9月の日露講和条約によって、朝鮮半島に対する日本の指導権が認められた。
日本政府は、韓国を列国角逐の圏外に置いて、東洋紛争の原因を断ち、自らの安全を確保しようとしたのである。
更に明治38年11月、第二次日韓協約を結んで韓国の外交権を握った日本は、首都の漢城(ソウル) に韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監に任命した。
伊藤は日韓提携論に立ち、保護政治によって韓国を近代的な独立国家に育成したいと考えていた。
それに対して韓国皇帝は、明治40年6月、オランダのハーグで開かれた万国平和会議に使節を送り、列強の圧力を借りて日本の勢力を駆逐しようとした(ハーグ密使事件)が、外交権が日本にあることにより、韓国の主張は認められなかった。
日本政府は、この事件後まもなく、韓国皇帝を退位させて、第三次日韓協約を結び、内政権を掌握して、韓国の軍隊を解散させたのである。
その頃から韓国では日本に反発する民族運動が高まり、明治42年10月、伊藤博文がハルビンで安重根に暗殺された。
そこで提携論者の重石のなくなった日本政府は、翌43年8月、韓国政府に迫って日韓併合条約を調印し、漢城を京城と改めて朝鮮総督府を置くに至った。
日本としては、「朝鮮から外国の勢力を排除して周辺有事の要因を除こう」としてきたもので、日韓併合はそのための難しい選択であったが、しかしむしろ「外国勢力を借りて政権を維持しようとする韓国政府」との相互不信を招き、結果的に日本が韓国を併合することで最終的解決を図ったのである。
終了
しかし昭和20年、第二次世界大戦の終戦に伴い実効支配を喪失し、昭和20年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に日本による朝鮮領有は終了した。
条約上の領有権の放棄は昭和27年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効によるが、昭和20年9月9日に朝鮮総督府がアメリカ軍への降伏文書に署名し領土の占有を解除しており、昭和23年(西暦1948年、檀君暦4281年)8月15日には大韓民国が建国されている。
結果
35年間の日本統治時代、中世社会同然だった朝鮮半島は近代化され、平均寿命も倍に延び、人口も2倍に激増した(ただし、李氏朝鮮および大韓帝国はまともに統計などが取れていなかったという説もある)とされる。併合当時の韓国は、山、河川、田畑などが(主として支配者階級の両班の過酷な統治により)荒廃しきっていたが、はげ山と化していた山野は植林がなされ、放棄された農地は再建されて治水灌漑設備も整えられたとされる。
日本内地と同様にして義務教育制(ただし内地の教育とは異なる)を布き、ほぼ100パーセントの識字率にしたことは日本の大きな功績であった。統治時代の日本人教師は朝鮮の児童を慈しみ、結果として教え子である大多数の朝鮮人はかつての恩師を慕っていたとされる。
明治33年7月5日には仁川と京城とを結ぶ京仁線が開通し、明治38年5月25日には釜山と京城とを結ぶ京釜線が開通したが、これらの鉄道敷設は日本の技術と資本によって完成した。電気、ガス、水道、港湾、河川修復、農業、植林、病院や学校の開設、重工業の導入に至るまでの膨大な資金や技術は、やはりほとんどが日本によって行われた。
併合後はいかなる朝鮮人民も全てハングルを習うことができるようになった。また、統一されていなかったつづり方も統一した。日本政府は朝鮮人民に対しては日本語に加え母国語ハングル文字での教育を行い、新聞でも朝鮮人民のためハングルで記された「毎日新聞」が終戦まで発行されていた。ただし、占領末期には内鮮一体の考えによりハングルの教育が行われなくなった(これと同時に日本統治終了後、公用語をハングルのみにしたために、後に識字率の問題が復活した)。
創氏改名
満洲事変の頃には満洲に移住した朝鮮人が100万人ほどいたというが、彼らは日本人名に改姓した。それまでの朝鮮人は中国人から軽蔑されていたが、改姓して日本人になったので、今度は威張れるようになったという。そういう傾向は、日本内地から朝鮮内部にも起こった。
そこで昭和15年に「創氏改名(朝鮮人が所有しなかった「氏」を作り、それに伴い名を改めることが出来るとする法律)」が発令されたが、朝鮮人に日本名を名乗らせる布告に驚き呆れたのは日本人であった。結果として朝鮮人が徳川、松平、三条、近衛といった大名・公卿の姓をつけ、多くの日本人は怒ったが、これは強制されたものではなく自由意思であるとされ、支配者階級の両班階級の人々は殆ど届出(すなわち日本式の氏および改名)しなかったとされる(8割程度の届出率のため、戸籍上の両班は)。
この制度は「六ヶ月以内に届け出た者に限って認める(届け出なかったものは姓がそのまま氏となり、以後の改名は理由ない限り不可能)」というものであり、結果届け出た者は79パーセントに達した。
しかし末端組織では、創氏の届出率の競争をするような雰囲気が生まれ、とある小学校長は、届出をしなければ子供を学校に来させないとまで言ったといい、そのために薜鎮水という両班は、井戸に飛び込み抗議の自殺をするという悲劇が起こった。
洪思翊という人物は、創氏改名をしなくとも陸軍中将にまでなった。
なお、これらの氏名は日本による統治終了後、無効とされたが、在日朝鮮人の一部の通名はこれを元としていることがある。
日本に対するデメリット
一方、日本にとっては朝鮮半島の植民地支配による経済的メリットは薄く、むしろ日本が権益拡大を図っていた満州への経路、およびロシアとの緩衝地帯としての機能が重視されたとされる。
朝鮮半島や満州に社会基盤を整備するために行われた膨大な投資は、ようやく工業化が進みはじめたばかりの日本経済にとって重い負担になった。東京・大阪などの大都市や、朝鮮・台湾など外地の開発が優先されたために内地の地方(特に人口密度の低い東北地方や北海道)への投資は後回しにされ、日本の農山村は近代化から取り残された(このことが後の二・二六事件等にもつながってくる)。
赤字経営の植民地は、当時は珍しい話ではなく、イギリス、フランスなども20世紀に入ってからの大半の植民地は、利益より持ち出しの方が多かったとされている。ただ、もともと経済基盤が弱かった日本にとっては、植民地支配の負担もそれだけ大きなものになったのである。
またこの統治後、大日本帝国と敵対していた勢力(共産主義者および民族主義者)により朝鮮半島が統治される事となったため、この国の人たちは元宗主国である日本をうらむことになる(反日)。