人物
朝鮮の特権階級・両班(ヤンバン)の出身の1879年生まれ。カトリック信者の民族主義者で、1905年に朝鮮が日本の保護国となったことに憤慨し、抗日活動に参加してロシアに亡命。
朝鮮統監だった日本の元首相・伊藤博文を朝鮮亡国の元凶と見なし、1909年10月26日、当時の満州(現中国黒龍江省)ハルビン駅で伊藤を暗殺。
即座にロシア官憲に逮捕され、日本に引き渡されて殺人犯として裁判にかけられ、死刑の判決を下されて、1910年に絞首刑となった。皮肉にもこの年に韓国併合が実行された。
評価
日本では明治の元勲を暗殺したテロリストと見なされた一方で、安が明治天皇を尊敬していたことや、日韓が連携して列強の侵略に抗することを主張したことから、尊皇思想とアジア主義の影響が強かった当時の多くの日本人に共感を呼び、安は言わば「韓国の志士」として高く評価され、看守や右翼の活動家から助命嘆願が続出した。息子の安俊生は日本統治に積極的に協力する親日派となった。
当時の韓国では暴徒扱いされ、韓国前皇帝・高宗も安の行動を非難した。その後、民国成立後の韓国では義士として国民的英雄扱いであるが、北朝鮮においては彼が両班出身で展望なくテロに走った人物であるとして高評価ではない。
日本においても、戦後は展望なきテロリストとしての見方が主流になったが、野村秋介のように一部の右翼からは尊敬を集めていた。
なお、伊藤は韓国の併合を推進する立場ではなく、逆に併合には基本的に慎重な姿勢で反対的な立場を取り、保護国から独立国にすることを目標としていたため、安の行動は皮肉にも祖国の滅亡を早める結果になったとされる。暗殺時点では伊藤は周囲に妥協して併合を了承していたため、伊藤の死は併合の可否に影響は与えなかったとも言われるが、暗殺の影響もあり政治結社の一進会による日韓合邦運動も起こり、結果的には併合を加速させた。