岡本喜八
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おかもときはち
岡本喜八とは、日本の映画監督。故人。画像は代表作の一つ『日本のいちばん長い日』
1927年2月17日、鳥取県米子市四日市町に生まれる。本名は岡本喜八郎。
高校卒業と同時に上京し、1943年に東宝に入社、助監督となるも戦局の悪化に伴い招集され陸軍工兵学校に入学。愛知県豊橋市にあった第一陸軍予備士官学校で終戦を迎えた。
この豊橋滞在時に空襲で多くの戦友たちの死を目の当たりにし、戦争や無責任な軍部に対する大きな憤りを抱き後の戦争映画に影響を与えた。
戦後はマキノ雅弘、谷口千吉、成瀬巳喜男、本多猪四郎らに師事し下積み時代を迎える。1957年に東宝が社内での助監督経験がない石原慎太郎(一時期東宝に所属していたが『太陽の季節』が日活で映画化される前後に退社していた)に自作『若い獣』を監督させると発表した際に助監督らが猛反発し、シナリオ選考の時点で一人を監督に昇格させることが決まり、『独立愚連隊』『ああ爆弾』のシナリオ実績を買われて昇進し、1958年に『結婚のすべて』で監督デビューを果たす。以後『日本のいちばん長い日』や『侍』など多くの作品を手掛けた。
1970年に東宝を退社。娯楽映画の撮影にも着手し、1991年に『大誘拐 RAINBOW KIDS』では日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀脚本賞を受賞し、持ち味の一つである娯楽色をさらに前面に押し出した作品が多くなっていく。
1995年、『EAST MEETS WEST』で初のアメリカロケ中に言語障害を起こし、硬膜下血腫と診断される。その後も軽い脳梗塞などを起こし、言語が不明瞭であった。
- 『結婚のすべて』(1958年)
- 『若い娘たち』(1958年)
- 『暗黒街の顔役』(1959年)
- 『ある日わたしは』(1959年)
- 『独立愚連隊』(1959年)
- 『暗黒街の対決』(1960年)
- 『大学の山賊たち』(1960年)
- 『独立愚連隊西へ』(1960年)
- 『暗黒街の弾痕』(1961年)
- 『顔役暁に死す』(1961年)
- 『地獄の饗宴』(1961年)
- 『どぶ鼠作戦』(1962年)
- 『月給泥棒』(1962年)
- 『戦国野郎』(1963年)
- 『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)
- 『ああ爆弾』(1964年)
- 『侍』(1965年)
- 『血と砂』(1965年)
- 『大菩薩峠』(1966年)
- 『殺人狂時代』(1967年)
- 『日本のいちばん長い日』(1967年)
- 『斬る』(1968年)
- 『肉弾』(1968年)
- 『赤毛』(1970年)
- 『座頭市と用心棒』(1970年)
- 『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)
- 『にっぽん三銃士 おさらば東京の巻』(1972年)
- 『にっぽん三銃士 博多帯しめ一本どっこの巻』(1973年)
- 『青葉繁れる』(1974年)
- 『吶喊』(1975年)
- 『姿三四郎』(1977年)
- 『ダイナマイトどんどん』(1978年)
- 『ブルークリスマス』(1978年)
- 『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』(1979年)
- 『近頃なぜかチャールストン』(1981年)
- 『ジャズ大名』(1986年)
- 『大誘拐 RAINBOW KIDS』(1991年)
- 『EAST MEETS WEST』(1995年)
- 『助太刀屋助六』(2002年) ※遺作
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