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概要編集

東京府南葛飾郡寺島村(現:東京都墨田区)出身。

東京府立第四中学校(現:東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部在学中に左翼系新劇の演出家を目指すが1930年に中退。1933年に東宝の前身であるP.C.L.に入社。

山本嘉次郎島津保次郎の助監督を務めた。

同期には亀井文夫本多猪四郎らがいた。本多と黒澤明は共に山本嘉次郎の助監督についたことがあり親友であった。

1947年に『銀嶺の果て』で監督デビュー。同作は三船敏郎のデビュー作でもあり、北アルプスでロケを敢行したことで「キネマ旬報」ベスト・テン7位を獲得している。同作でサード助監督を務めた岡本喜八は何度か谷口監督作品の助監督としてつくことがあった。

「芸術の黒澤、娯楽の谷口」と謳われて東宝ではアクション映画を多く担当。あまり映画制作に積極的ではなかったことと後述の私生活のスキャンダルから3年近く干されている。

1960年代にはB級アクション映画や喜劇映画を手掛けたが、1970年に大阪万博の記録映画の総監督を経て、1975年の『アサンテ サーナ』を最後に表舞台に出ることはなかった。

2007年10月29日、誤嚥性肺炎のため死去。95歳没。


人物編集

私生活では3度結婚している。最初の結婚は脚本家の水木洋子で、1938年12月に乃木神社で式を挙げたが翌年にはスピード離婚している。

そして1949年には『銀嶺の果て』で知り合った若山セツ子と電撃結婚をしたが、1956年に『乱菊物語』で知り合った八千草薫と不適切な関係になり若山とは離婚。

若山はその後役者としても伸び悩み精神も不安定になってしまい、1960年代に休業している。このスキャンダルが原因となり谷口も3年近く干されてしまっている。

3度目の結婚となった八千草薫とは親子ほどの年の差だったこととそのいきさつから波紋を呼んだが、おしどり夫婦として生涯連れ添った。

大学時代から登山に熱中し、日本山岳会の会員でもあった。八千草も山歩きが趣味だったため夫婦で登山を楽しんでいたという。


伊福部昭の映画音楽デビューとなった『銀嶺の果て』や『ウルトラマン』にセットが流用された『奇巌城の冒険』など監督作品が特撮とニアミスしている一方、自身は特撮映画とは縁がなさそうに見えて実は日本・インドネシア合作映画『栄光のかげに』の監督に予定されていた。政治上の都合で同作が中止になった際、田中友幸から『ゴジラ』の監督に打診されたが、「人間ものでないものは撮れない」と断っている。


主な監督作品編集


関連タグ編集

映画監督 東宝

八千草薫

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