曖昧さ回避
概要
生没:文化7年(1810年)〜嘉永3年12月21日(1851年1月22日)※括弧内は新暦
名は『忠次』とも書く。本名『長岡忠次郎』。
『国定』は生国である上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)に由来する。生家は中農以上の富農であったとされる。
若くして博徒の道へ入るものの賭場で人を殺め、凶状持ちとなった忠治は『天下の和合人』と呼ばれる大前田英五郎の許に身を投じる。
その後は赤城山を根城に、上州きっての俠客として名を轟かせるようになる。
義賊としての顔
天保の大飢饉(1833〜37年)の折には飢えに苦しむ百姓のため、子分らと代官所破りをし囲米を分配。
灌漑用の溜池の普請など、私財をなげうち窮民を救う枚挙にいとまがなく、その任侠心は地元で大いに喝采を博したという。ただしこれらの義侠伝の真偽は定かではない。
大戸関所破り
天保7年27歳(※数え年)の時に、弟分・茅場兆平の仇討ちのため20人もの子分を引き連れ、大戸の関所を破り信州へと向かう。
当時関所破りと言えば、100年に幾度も見られぬ大罪であった。
上州へ戻ると追っ手から逃れるべく赤城山や信濃路などで潜伏していたが、跡目を譲った後の41歳の時、ついに関東取締出役に捕縛され江戸送りとなってしまう。
最期は吾妻郡大戸村にて、博亦渡世や殺人、関所破りなどの罪で磔の刑に処される。
後日妾であった女侠・お徳(菊池徳)の手により、その遺体は二つの寺に埋葬された。
菩提寺の一つ、伊勢崎市曲輪町の施無畏山善応寺には、お徳の建立した『情深墳』が残され、表には忠治の戒名である『遊道花楽居士』、裏には『念佛百万遍供養』と刻まれている。
もう一方は伊勢崎市国定町の金城山養寿寺で、墓碑の隣には『国定忠治遺品館』が併設されている。
かつて信州・草津街道の要衝だった大戸関所(現在の群馬県東吾妻町)には、現代になって復元された門があり、国定忠治処刑場跡には弔いのための慰霊碑と地蔵尊が祀られている。
「赤城の山も今宵限り…」「親分!」
「赤城の山も今夜限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、国を捨て、可愛い子分のてめえ達とも別れ別れになる首途(かどで)だ」
上州一の大親分・忠治が追い詰められ、赤城山に集う子分たちに別れを告げ根城から去りゆく名場面。
後世に講談・浪曲・歌舞伎を含めた芝居・映画などで何度となく脚色された逸話だが、実際の捕縛は潜伏中に中風(脳溢血)で倒れた末であったと伝えられている。
上州博徒の典型的な人物とされる国定忠治には、こういった虚説が少なからずあるものの、今も根強くその生き様を愛する人も数多い。
近年の評価
国定忠治は長らく反権力の象徴、庶民の英雄として親しまれてきたが、近年では渡世人を賛美することへの反発もあり、歴史的な評価は分かれている。