概要
「侠客」とは、「弱きを助け、強きを挫く」事を信条にして任侠に生きる漢たちの呼び名である。
単なる「ヤクザ者」や「無法者」とは異なり、「己の中の正義」を持つ者がこのように呼ばれる。
古来より・体制側に楯突く者として「歴史上の人物」としても現実に存在しており、また「任侠モノ」としての娯楽物語が数多く著されてきた。
歴史
侠客という言葉の歴史は古く、司馬遷の『史記』には「侠客列伝」という項目がある程である。
侠客に明確な定義は無いが、司馬遷の時代に語られた侠客の在り方は「徳を重んじ、市井の人々と苦楽を共にし、曲がったことはたとえ王侯貴族の命令であろうと断固拒否し、名を売る行為を恥として清貧を心がけ、立場を問わず多くの人と交友を深め、武勇を磨き、己の命を賭しても通すべき筋を通す」といったもので、言わば己の美学を徹底的に追求する生き様と言えた。
古来より中国では、こういった武勇に優れ、情に厚い勇者たちを食客として養うことが君子の美徳とされており、孟嘗君の三千人の食客しかり劉備・関羽・張飛の桃園三兄弟しかり、一宿一飯の恩のために命を張るような「漢」達の姿に民衆は憧れ、己もかくありたいと思うようになったのである。
とくに有名なのは宋末期の宋江一味、すなわち「梁山泊」である。男たちが腐った権力めがけ戦い抜く姿は小説『水滸伝』に記され、「武侠小説」という一ジャンルを形成するに至った。
日本では古来より土着の豪族や義賊が体制側と戦ったことがしばしあり、中でも室町時代には「悪党」と呼ばれる略奪により生計を立てる武装集団なども登場した。こうした「お国柄」もあって、中国伝来の侠客なる発想は受け入れられ、そういった下地のもとに男達は集い、江戸時代には博徒や自警団などがこの「漢気」を背負い、己が一生を義侠のために賭けることとなったのである。
…まあ、単なる暴力集団に成り下がる奴は腐るほどいたんだけどね。
この点は司馬遷の時代からそうであったようで、史記の記述にも「最近は上辺だけ遊侠の徒を真似ただけのチンピラが増えて嘆かわしい」と書かれており、侠客の魂を理解していない輩が単なるヤクザ者になってしまうのは古来よりの傾向であったのだ。それだけ真の”漢の魂”を理解し体現するのは難しいことなのである。
それを踏まえた上で司馬遷はこう続けている。
「世間の人々が任侠の志を知らずに朱家や郭解(当時有名であった侠客)をチンピラのごとき連中だと見下すのは悲しいことだ。遊侠とは、その行為が世の正義と一致しないことはあるが、しかし言ったことは絶対に守り、なそうとしたことは絶対にやりとげ、一旦引き受けたことは絶対に実行し、身を投げ打って、他人の苦難のために奔走し、存と亡、死と生の境目を渡った後でも、己の能力におごらず、己の徳行を自慢することを恥とする、そういった重んずべきところを有しているものである。」
侠客とは自分の信ずる正義、もしくは自分の美学を貫くために命をも投げ出す生き様なのである。