概要
入信・改宗に際し、もともと持っていた名と別の宗教的な名前を得るという習慣はアブラハムの宗教にも見られる。
現存する仏教伝統でも上座部仏教、大乗仏教、両方で行われている。
「受戒」とは戒を受ける側から見た呼称であり、戒を授ける側である僧侶からすると「授戒」となる。
戒を受けた人はその時より「仏弟子」であり、「戒弟」と呼ばれる。
日蓮宗では法号という呼称を用いる。浄土真宗では「法名」が戒名に相当するが、自力修行を徹底的に排するため、戒を受ける儀礼もなく、厳密には「戒名」の一種ではない。
戒名の構成や方式には各宗派で違いがある。
戒名は中国において「号」の慣習の影響を受けた。中国文化における号は本名と別に名乗る名前という意味だが、同時に称号(位)という意味もある。
こうした背景もあり、中国で体系化された仏教を取り入れた日本において戒名に「ランク」が生じることになる。
戒名のランク
仏教にはもともと三宝に「僧」を数え、その集いであるサンガに援助する事で善業や徳を積める、という考えがある。
お寺の賽銭箱にお金を投じるのも、その発想による。賽銭箱は神社にもあるが、賽銭は回収されると寺社の収入となり、宗教施設・宗教用品の維持や拡張、購入に用いられる。
院号や院殿号はその額が莫大に昇る人物の戒名に含まれる号である。歴史的には室町幕府や江戸幕府の歴代将軍などが該当する。
彼らの資金援助によって建立された寺院は数多い。時の権力者としての財力から、大規模であったり、複数であったりする。
それ程ではないにせよ、多大な貢献をした人物の戒名には庵号・軒号が含まれた。
庵とは小規模な寺院、軒とは寺院内の個別の施設を表す。
上記のような特別の号がもらえるような事が出来たのは、ほぼ上流階級や金持ちだけであった。そのため、戒名のランクはそのまま社会的な階級を表してもいる。
それには負の側面もあり、「えた」「ひにん」と呼ばれる被差別階級の人々の戒名には彼らが従事させられた畜産業や革なめし業から「畜」や「革」「屠」の字が入れられ、下層階級という扱いから「僕」「非」の字も入れられた。これを差別戒名という。
しかも、これは被差別階級における識字率の低さにつけ込んだものであった。つまり本人の了解を得ず、寺院で読み書きを習った仏僧がこれを行うという地獄のような図である。
「戒名料」問題
寺院側に払った金額で決まる戒名、は近年になって問題視されるようになった。
近代以降、日本において仏教への信仰が弱まり、社会が無宗教化されていくにつれ、
戒名は専ら葬式に際して死者につけるものとなった。近代以前の武将や貴人は生前に自分の意思で寄進した事により高ランク戒名を得た。
しかし現代においては本人の死後、遺族が寺に払うお金によって、所定のランクの戒名を得る。
これが世間からは「死者を金でランク付けする」ように見えてしまった。
近代以前にはまだ仏教信仰が生々しく活きており、戒名を受けた人も仏教徒として日頃から勤行したり、信仰目的の寺社詣でに出向いていた。
現代においてはそれは乏しくなり(実業家が神仏を信仰する例は少なくないが)、別に敬虔な仏教徒でない故人にも院号をつけたがる遺族が現れており、「大金→高ランク戒名」という部分しか見えなくなっているのも世間から白眼視される原因だろう。「戒名料」という呼称はこれをよく現している。
無宗教化により「信仰の名」に大金を払う程の価値を感じることができないというのもあるが、
(富豪の戒名だけでなく)一般人の戒名もそれなりに高額であり、葬式費用の高額化の要因となっているのが「戒名料」への反感の最大の理由と考えられる。
しかし、これには理由がある。僧侶の生活、寺院の施設や物品(仏像)の維持・管理にはお金がかかるのに、檀家の多くは仏教信仰と無縁になり、布施や寄進を行わない。
さらに、観光地やお遍路のような巡礼地として不特定多数の参拝客を集めることが出来る寺院は、全体から見ればほんの一握りである。
ではいつ、運営費を得るか?葬式と法事である。仏教徒がふだんから運営費を少しずつでも提供するというわけでないなら、特定の機会に一気に回収するしかない。
なお「戒名料」という呼称を仏教界側は拒絶している。しかしそう揶揄される状況を変える余力は日本仏教側には残っていない。
葬式中心となった日本仏教を「葬式仏教」と呼ぶむきもあるが、檀家自体が葬式と法事でしか仏教を求めないなら、僧侶側もそこでしかやりようがない。