概要
石原慎太郎は、日本の政治家、作家元東京都知事 (第14・15・16・17代) 。自民党→太陽の党(元たちあがれ日本)→日本維新の会を経て次世代の党代表。
俳優の石原裕次郎(故人)を実弟にもつ。石原伸晃、石原良純、石原宏高、石原延啓は息子で、このうち伸晃・宏高は自らも政治家となった。
デビュー作の「太陽の季節」が芥川賞を受賞し、映画化もされる。作家としては代表作にあるように奔放な若者のインモラルな生き様を描く等物議をかもした。(「太陽の季節」は賛否両論で物議を醸し、「太陽族」なる若者も出てきた。)。『化石の森』で芸術選奨の受賞歴もあるなど実力も培っていたが、名前で売れたと作家としては過小評価されている節もあり、また別の部分で名が売れていたばかりに、文学賞を他人に譲られるというような、作家として評価されなかった苦い経験もあった。ちなみに『化石の森』は当初、日本文芸大賞の受賞候補だったが、今回は他の功労者に譲ってやってほしいと云われている(報われない作家に与えられる「平林たい子文学賞」の受賞者でもあることが、それを物語っている)。それで芥川賞などの文学賞に苦言を呈していたことが何度もあり、もっと実力を評価してやってほしい、それが将来の作家のためにもなるという持論を持ち続けていた。
また、「スパルタ教育」という教育論を執筆して奨励したのも彼である。また、バブル期に上梓した『「NO」と言える日本』は120万部以上を売り上げるベストセラーとなった。
1968年に参議院議員として初当選し政治家転身。以後運輸大臣等閣僚も経験するが、1999年より東京都知事として就任、ディーゼル車の規制や尖閣諸島国有化に繋がる発言をするなど、都政だけでなく国政にも大きな影響を与えた。中でも首都圏全域を巻き込んだディーゼル車排ガス規制は、規制不適合となった都営バス車両の早期廃車・解体(原則、他社譲渡も禁止)、DPF(粒子状物質減少装置)の装着義務化、新長期規制の制定など、国や自動車メーカーを動かす事となる。
「たちあがれ日本」のメンバーとともに新党を結成し次の衆議院議員選挙に出馬する意向を示し、「太陽の党」を結成したもののすぐ日本維新の会に合流し、同選挙で当選し国政に復帰した。
そして2014年6月26日に「次世代の党」を結成し、最高顧問に就任。同年12月の衆議院選挙に臨むも党の状況は厳しく、石原自身も82歳という高齢に加えて前年に脳梗塞を患う等体調が既に万全でないこともあり既に引退を視野にいれていたこともあり、比例のみでの出馬にもかかわらず自らの比例名簿順位を下にしていた。そして12月14日、次世代の党は大敗北を喫し石原自身も議席を失ったことで12月16日に政界引退を表明した。
晩年は表舞台に出ることも減り、死去直前まで作家としての活動に勤しんでいたという。
2022年2月1日、89歳で死去。死因は膵臓癌とされており、死去前年の10月に再発していたことを長男の石原伸晃が会見の場で明かしている。尚、遺骨の一部は遺言に従い湘南の海に散骨された。
余談
- 非常にアクが強く過激な発言やタカ派な政治思想という面から、好き嫌いが分かれる人物として知られる。マスコミからは「暴走老人」などと呼ばれていたが、本人もこの二つ名を気に入ってよく使っていた。
- 漫画・アニメ方面では、東京都青少年健全育成条例などの関係で、pixivなどネット上での反発が根強く、アンチも多い(珍太郎などの記事などに詳しい)が、対立候補の弱さや支持基盤の強さ等も手伝い選挙には強かった。
- 本人曰く、三島由紀夫は友人と言っているが、当の三島本人は否認していた。立川談志とは、友人関係ではある。
- 文壇きっての悪筆で有名。文学館などに展示してある生原稿は「ミミズが這った」ような字で、一般人にも読めるよう鉛筆書きのルビがふってある。出版社には彼の原稿を解読する「慎太郎係」なる役職がいたらしい。字が汚すぎて普通の編集者には読めないので、原稿を自分で読んだ声をカセットテープに吹き込み、一緒に渡すこともあったという。晩年にはワープロを使っており、担当編集者は原稿解読の苦労から解放された。
- あの麻原彰晃が尊敬する人でもある。オウム真理教が宗教法人になるきっかけを作った経緯もあり、四男の延啓が一時期オウムの幹部であった。
- ラグビー選手に、同名の選手が実在する。
- 弟である石原裕次郎について「俺が、まだ、女の子と手を握った事もなかった頃に、あいつは家に彼女を何度も連れて来ていた」(大意)という事も話している。
- なお、石原慎太郎の小説には「片方が非モテ、もう片方がヤリチンの兄弟」と云う話が何度が登場する。