概要
麻原彰晃(1955年~2018年)
本名は松本智津夫、1955年3月2日生まれ。
ホーリーネームは「マハー・グル・アサハラ」。
教団の著作物では「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」とも呼んだ。
来歴
熊本県八代郡金剛村(現八代市金剛校区)出身で、畳職人の貧しい家で9人兄弟の7番目として生まれたが、片目が先天性の緑内障で失明していたため寮のある熊本県立盲学校に全盲の兄や弱視の弟と一緒に出された。藤原新也は、「麻原兄弟の視覚障害が水俣病の影響であり、それゆえに同じく視覚障害を起こすサリンを使ったのではないか」(※注釈1)という仮説を立て、全盲の長兄に事件後インタビューしている。長兄の証言によると、彼も智津夫の視覚障害に関し同様の疑いを持ち、「水俣病患者として役所に申請」したことがあるが、却下されたという。全盲の生徒が多い中で片目が見える彼は、同級生相手に有利な立場にあったため暴君のように振舞っていたという(※ 注釈2)。
(※ 注釈1 ただし後の裁判等で、麻原はホスゲンやボツリヌス菌など他にも多くのオウム真理教の兵器を開発指示しており、サリンはその中のひとつに過ぎないことがわかった。サリンを選出したのは土谷正実らである。『黄泉の犬』はまだ事情がよく分かっていなかった1995年当時の文章。)
(※ 注釈2 ただしこれらのエピソードは「テロ組織のボス・麻原彰晃」としての悪名が世に広まってから出てきた話であり、少し偏った証言になっている可能性もある。高等部での担任教師であった人物は、盲学校時代の報道を聞いて「そういう陰日なたのある人間とは、とても感じられなかった」、「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と述べている。)
これは生来の性格のみならず、障害のある自分たちを、親が金が一切かからない盲学校に「捨てた」と認識したことにも起因している。そして、盲学校に在学中は両親が学校に訪れることもなく、里帰りすることもなかったという(※注釈3)。
(※注釈3 ただ、麻原の幼少時代の悪いエピソードは少年期特有の無知であったり、環境が生み出していたものであり、麻原自身の人間性がこれらのエピソードによって決定されるものではないのではないかとも考えられる。)
ルポ『麻原彰晃の誕生』によると、右目の視力が当時完全にあった麻原が盲学校に入学できたのは、将来的に全盲になる可能性があったと認定されたためであるという。また、行動面では、熊本県立盲学校の歴史上もっと酷い生徒はいたものの、反省の無さでは群を抜いていたという。
専攻科時代、運動会の応援団長を務めることになった松本は、運動会当日モヒカン頭の出立ちで現れ周囲を驚かせた。
熊本県立盲学校を卒業後、上京し東京大学文科1類を目指すが挫折。鍼灸師免許を取得し、予備校で出会った松本知子(事件で逮捕され、処分ののち釈放されたあとで戸籍名を変更している)と結婚。千葉県船橋市に住み鍼灸院を経営していたが、この頃から阿含宗やGLAなどの宗教団体にも出入りしていた。1982年に無許可の薬品を販売し薬事法違反で逮捕される。薬事法違反事件の捜査を担当した刑事の白岩武雄は、あの時起訴して刑務所に送ることに繋げられれば、反省して悪事から足を洗ったかもしれないと深く後悔しており、ルポ『麻原彰晃の誕生』でその詳細が書かれている。
鍼灸院・薬局時代の「病気の人を治せない」という無力感が麻原を宗教へいざない、それが後の暴走の要因の1つとなったという分析も存在する。ルポ『麻原彰晃の誕生』では、27歳にして2度の逮捕歴を持つこととなった挫折感が麻原に暗い影を落としたという分析がある。
妻の松本知子と三女の松本麗華によれば、1982年に麻原が薬事法違反で逮捕されたことや、宗教にのめり込み家に戻らなくなったことなどが原因で、許容量をはるかに超える精神的葛藤のために、精神の異常が現れ始め、神経症に罹ったと告白(自著『転換人生』にも書いている)。その後、対人恐怖症・外出恐怖症を発症、強迫神経症もひどくなる。このため、家庭でも精神不安定が目立ち、外で愛想のよい笑顔を浮かべた日に限って家庭では些細なことで怒りを爆発させていた。夫婦喧嘩の末に家出をすることもあり、「もう勝手にして!こんな家、出て行くわ」と叫びながらも実際に家を出るまで怒鳴りながら部屋と玄関の間を何往復もしていた。しかし、三姉妹の中で知子についていくものはなく、気の毒に思った三女の麗華が何度か家出について行った(松本麗華の本人談)。夕食の時間に知子が戻らなかった時には麻原は、インスタントラーメンを作ろうとし湯を煮詰めて鍋を焦がしたことがあり、それ以降は長女にラーメン作りを依頼するようになる(※注釈4)。
(※注釈4 ある知人はヨガ行者は粗食ばかりと思っていたら、麻原がインスタントラーメンを食べているのを見て驚いたという。)
やがてヨガ教室「オウム神仙の会」を開き、これを宗教団体に発展させてゆく。団体が宗教としての性格を強めたこの頃から、「アシュラ・シャカ」の意味が込められた『麻原彰晃』の名を名乗り始めた。この頃には超能力開発塾「鳳凰慶林館」を経営していた。「彰晃」の名はその少し後の時期に出入りしていた経営塾の主催者である経営コンサルタントにもらった名前である。
鍼灸師やヨガの教師をしていた頃や宗教団体の長として活動し始めた初期の麻原はヨガや鍼灸の腕も良く、周囲から「ごく普通のヨガの先生」「宗教家らしい感じはしなかった」と評され、また娘たちに対して「蚊に刺されるとかゆくて嫌だね。でも蚊も生きているんだよ」「世界には食べ物が食べられない子供もいるんだ、食べ物を粗末にするのはやめようね」など、不殺生や食の尊さを優しく説くなど宗教家として真っ当な信仰心があり、父としてもごく一般的で穏やかな人物であったという。
その裏で、教団が勢力を拡大するごとに暴力や犯罪行為へと舵を切ってゆき、1988年には修行中に信者を死亡させる事件を起こす。翌年にも脱会を目論んだ信者を殺害しており、この頃から非合法活動が活発になる。
麻原が非合法活動に手を染めた要因の1つとしては、一見すると人の死や殺人を肯定する文言を教義に持つ後期密教(イスラム教などと抗争していた頃のインド仏教最終形態)の影響も指摘される。
1990年、国政進出をもくろみ、教団幹部と共に「真理党」の名で衆院選に出馬した。しかし、様々な宣伝や工作活動も空しく、結果は立候補した25人全員が落選。この惨敗は麻原を打ちのめし、四女が主張した陰謀論を真に受けて以降は暴力による国家転覆を画策する邪教と化した。
その後も数々の犯罪事件の疑惑にさらされるも決定的な証拠をつかませなかったが、1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件をきっかけにして同年5月16日に逮捕される。
本妻や信者の女性たちとの間に多数の子供達がおり、本妻との間だけでも6人の子供がいたが、父の逮捕により一家はバラバラになり、学校の入学を拒否されたりいじめにあったり、教団の後継組織アレフに勝手に名前を使われたりと辛酸を舐めたといい、長女は窃盗に手を染めて逮捕されている。
最も麻原が寵愛し後継者候補とも言われ「アーチャリー」のホーリーネームで知られた三女の松本麗華は成人後実名を公表し著述活動をしている。麗華・次女(松本宇未のHNでブログやtwitterで発言)・長男・次男と、手記を「松本聡香」の仮名で発表した四女とは特に折り合いが悪いと言われており、麗華自身もポータルサイトのコラムで妹の発言内容を否定するなど泥仕合状態になっている。
麗華と四女、それぞれの支援を行なっている著名人ら(麗華には「オウム事件真相究明の会」を立ち上げて麻原の死刑執行に抵抗する森達也や宮台真司・雨宮処凛らがつき、四女には江川紹子が後見人となりコメント発表は滝本太郎弁護士を通じている)も巻き込んだ対立構造となっている。
1996年(平成8年)4月24日に東京地方裁判所で初公判が行われたが、僅か48席の一般傍聴席に対して、12,292人という、日本の刑事裁判史上最も多い傍聴希望者が東京地裁前に殺到した。(※ 注釈5)
(※ 注釈5 日本テレビはこの時点から、「麻原-」から「松本-」と本名で報道するようになった。その後、民放全局・産経新聞・中日新聞(東京新聞)などを除くほとんどの新聞社も本名で報道するようになった。NHKは結審までは松本を芸能人として扱い、「麻原-」を使用していた。)
2006年に死刑判決が確定、裁判中から奇行や奇妙な言動が目立つようになり、死刑逃れの仮病と目されたこともあったが、麗華によると既に娘達とすらまともな会話は出来ず、精神を病んでいる可能性が高かったとされる。しかし、麗華より後の時期に面会した聡香の証言では普通に受け答えができている部分もあったといい、この辺りも証言者により大きなブレがあり真相は判然としない。
2010年代に刑のため拘置所に勤務した服役囚の話では、麻原の部屋は糞尿まみれで本人もまるで抜け殻のようであったといい、少なくともまともな受け答えを期待することはほぼ絶望的であったようである。
2018年1月にオウム事件に関する一連の刑事裁判が終了、最終的に死刑が確定したオウム関係者は13名だった。3月14日にこのうち6名が東京拘置所から移送され(麻原は東京拘置所に残留)、執行の日が近いとも目されたが、4か月後の7月6日に麻原を含む計7名(内訳は、前述の移送組のうちの3名と、東京拘置所に残留した麻原含む4名)の死刑が執行された。享年63。
執行直前の教戒も断り、暴れもせず落ち着いた様子ではあったが執行の寸前には若干表情に変化が見られたと報じられている。
最期に発した言葉は「ちょっと待って」「グフッ」「(遺骨の引き取り先を問われて)四女」だったとされる。
しかし、彼の遺骨の引き取りを巡り、指名されたと言われている四女と、妻・麗華・次女・息子2人の骨肉の争いが起こり(長女はこの騒動からは距離を置いているようである)、家裁・高裁ともに四女側の抗告を棄却し、次女に引き渡すとの審判が出ているが、現在も麻原の遺骨は東京拘置所にある。
人物
洗脳と人心掌握の天才であり、相手の弱みにつけ入る能力に長けていた。
国内で1万人程度の宗教団体が、粗悪ながら銃器や細菌と言った生物兵器を製造できたのも、貧しい人々は勿論、物質面では満たされても心に隙間を抱えていた高学歴信者の獲得に成功した、彼の才能の賜物であった。空中浮揚などいかにもアホっぽいが、意外にも読書家で理系の大学生や宗教学者相手に会話ができるカルト界随一の知識人でもあった。
逮捕後に膨大な嘘が発覚しても尚、信仰が揺らがなかった信者が多数存在した事実からも、影響力の強さが窺える。
元側近の上祐史浩も、雑誌インタビューで「麻原は人の心を読む感受性は鋭く、超能力のようなものは確かにあった」と認めている。一方で「能力と人格が一致しない人物だった。麻原の根源は、逆恨みと被害妄想。弱視だった子供時代からの逆恨みを社会に広げた人物だ」とも評した。
趣味
盲学校中学部・高等部時代に、他の寄宿生らを集め西城秀樹や尾崎紀世彦の歌を歌う「松本智津夫ショー」を何度も開催していた。空き缶をマイクの代わりにして西城秀樹の当時のヒット曲「傷だらけのローラ」を歌ったこともある。校内で結成したバンドでもボーカルを務め、西城の「情熱の嵐」を十八番としていた。
麻原の本棚には『我が闘争』があった。また、ヒトラー生存説やハルマゲドンを書いた『滅亡のシナリオ』(川尻徹作)のファンであった。血液型性格分類に興味を持っていた。
オス猫の「マース君」とメス猫の「サニー君」を飼っていた。麻原曰くマース君は死後、阿修羅界に転生したという。またオウムには動物の入信制度があり、捨て猫の「キタロウ」「ミンミン」などがオウムの一員となっていた。いろいろ持ってこられるので「オウムは動物園じゃないぞ」と怒ってもいたが、気がつくと飼っていたという。また、アヒルのおもちゃと一緒に風呂に入るのが趣味。
時期によって服の色が異なる。初期は「ヒナヤーナ」を表すオレンジ色の服、真理党出馬の前後は「マハーヤーナ」を表す白色の服、その後一時期は「純粋な帰依」を表す青紫色の服、末期は「最高の色」である赤紫の服を着ていた。
逮捕前、メロンとパーコー麺とステーキを好んで食べていたという。しかし、本人は「メロンなんかここ2、3年間食べたことがない。私が好きなのはバナナなのに」と主任弁護人に伝えていた。留置所では、家族から弁当の差し入れを毎日もらっていたが「今日の弁当は鮭が小さかった」と残念がる時もあった。
信者には肉食やアイスを禁じていたが、ファミレスで焼き肉重、まぐろ丼、いくら丼、オニオンスープ、味噌汁二杯、アイスなどを勢いよく食べていたこともあった。一時期ファミレス中毒になり連日通っていた。捜査で第6サティアンから牛肉とエビが発見されたが、取り調べで肉食については断固否定した。
人物評
怪物的、独裁的な人間性が取りざたされる一方、教祖としてふるまう必要がない場面では素直で気の小さな凡人らしく、逮捕後弁護士に教祖として信頼を得るために空中浮揚を披露することを勧められてしばらく修行に励んだり、検察官に「壁を抜けてみろよ」とからかわれると苦笑したという。
とあるテレビ番組で、司会の岸部四郎がオウムのお弁当屋さんの常連客であることを麻原に明かすと、たちまち態度が和らいで普通の人になったとも言われる。
信者からの評価は「優しかった」と「怖かった」の真っ二つに分かれるが、オウム真理教分析筋からは「麻原には中心的人格が存在しない」という考察があった。怪物的な面と小市民な面が同居していたことを考えると、これで説明が付くのかもしれない。
十代の頃は身長175cm、体重80kgと同世代の中ではやや大柄で、柔道に打ち込んでおり盲学校の生徒としては異例の二段を取得している(逮捕後剥奪)。普段は横暴な松本少年を嫌っていた他の生徒達も松本少年が初段を獲得した時に限っては総出で自分のことのように歓喜していたという。
その他
テレビ出演
現在では考えられない話だが、1990年前後の麻原はテレビ出演を繰り返し、対談した芸能人や文化人から好意的な反応を獲得していた。中にはとんねるず、ビートたけし、田原総一朗といった大御所も含まれていた。
当時のオウム真理教や麻原は、世間では「風変わりな集団」「面白いおじさん」程度の認識であり、特に否定的に見るべき要因もなかったためである。
地下鉄サリン事件後に実態が判明すると、対談の事実は彼らの黒歴史となった。
前世・来世
麻原が自称する前世は実に様々で、発言により二転三転している。
宗教概念上の存在だけでなく、徳川家光、朱元璋、近藤勇といった実在人物も含まれ、果ては「前世で宮沢りえと夫婦だった」という滅茶苦茶なものもあったという。
このままでは来世は読売巨人軍のピッチャーになることになっていたが、修行が進んだ結果回避されたという。また56億年後には弥勒菩薩となる魂であると自称した(※ 注釈6)。
(※ 注釈6 獄中で「俺は長嶋茂雄の生まれ変わり」とも言っていたといわれる。また、巨人のヒーローならHRバッターだろうし世代的にも王貞治ファンだったはず。堀内恒夫のファンだったのでは?と推測する声や、「90年代半ばで既に亡くなっている元巨人のピッチャー」という点から、沢村栄治のファンだったのではないかという考察もある。)
オウムソング
教団の音楽、いわゆるオウムソングの中には、麻原自身が歌ったものが多く存在した。
有名なのが「尊師マーチ」「エンマの数え歌」「真理教、魔を祓う尊師の歌」などである。
これらは麻原が作曲したことになっているが、実際には元ミュージシャンである鎌田紳一郎によるものとされる。
麻原は自らを音痴と認めた上で、宗教的な意図から敢えて音程を外している旨を説明した。
起訴された罪状
以下の13の罪で起訴され、全て有罪判決が下った。
- 男性信者殺害事件(殺人罪)
- 坂本堤弁護士一家殺害事件(殺人罪)
- サリンプラント建設事件(殺人予備罪)
- 薬剤師リンチ殺人事件(殺人罪・死体損壊罪)
- 滝本弁護士サリン襲撃事件(殺人未遂罪)
- 自動小銃密造事件(武器等製造法違反)
- 松本サリン事件(殺人罪・殺人未遂罪)
- 男性現役信者リンチ殺人事件(殺人罪・死体損壊罪)
- 駐車場経営者VX襲撃事件(殺人未遂罪)
- 会社員VX殺害事件(殺人罪)
- 被害者の会会長VX襲撃事件(殺人未遂罪)
- 目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件(逮捕監禁致死罪)
- 地下鉄サリン事件(殺人罪・殺人未遂罪)
裁判の迅速化のために取り下げられたもの
- チオペンタール密造事件(薬事法違反)
- LSD密造事件(麻薬及び向精神薬取締法違反)
- 覚醒剤密造事件(覚せい剤取締法違反)
- メスカリン密造事件(麻薬及び向精神薬取締法違反)
余談
- 逮捕直後から、全国の「浅原」もしくは「朝原」姓が風評被害を受けた。
- 大柄な体格のわりに、声のトーンは高めで喋り方も早口だった。再現ドラマなどでは、長髪に髭もじゃの容姿と共によく真似されている。
- ゲーム『グランド・セフト・オート(GTA)4』には、彼の名を冠した「アサハラ・ロード」という通りが登場する。
- 秋吉久美子やあべ静江のファン。
- メロンが大好物だったとされるが、実際にはバナナが好きだったと述べている。他にもステーキや排骨麺も好物だったとされる。
関連タグ
オウム真理教 上祐史浩 ポア 人格のない社団Aleph カルト 在日 テロリスト 犯罪組織 破防法 地下鉄サリン事件 松本サリン事件