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沢村栄治

さわむらえいじ

日本プロ野球創成期に活躍し、沢村賞にその名を冠する投手。

1917年生まれ。三重県宇治山田市の出身である。
足を高く上げる独特のフォームから放たれる豪速球と「三段に落ちる」と言われるドロップカーブで三振の山を築いた野球界においての伝説的な速球派投手である。
1934年には日本代表としてアメリカ代表と対戦。
中でも静岡県草薙球場で開催された試合では、7回裏にルー・ゲーリックにソロ本塁打を浴びたのみで、ベーブ・ルースらメジャーリーグ選抜チームを相手に8回5安打1失点と好投している。
(後に草薙球場は2度の改修を経て『澤村 - ベーブ・ルース Memorial Stadium』の愛称が付けられた。)

同年12月の大日本東京野球倶楽部発足とともに入団。その活動期間は1936年から1943年までで、途中1938、1939、1942年は兵役でまったく投げておらず、この影響もあって1943年にはもはや見る影もなく衰え、1944年のシーズン開始前に解雇されており、実質4年間であった。同年12月2日、輸送艦で移動中にフィリピン沖でアメリカ軍潜水艦の攻撃で艦が撃沈し、戦死した。
通算63勝22敗。1936年9月25日に日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成しており、通算3度の達成は後の外木場義郎と並ぶ日本タイ記録。
背番号14は読売ジャイアンツ永久欠番となっている。

のちにTV番組内で巨人軍の後輩青田昇がバッティングマシーンで沢村のストレートを再現するという企画が行われた。
その中で青田が『このスピードぐらいだった』と言った時のスピードは時速160キロであった。
(しかし、沢村は度重なる徴兵と手榴弾を投げさせられたこと、マラリア感染が原因で体を壊してしまう。)

死後、1947年に沢村の功績をたたえ、巨人の永久欠番とともにその年の最優秀投手に贈られる「沢村栄治賞」(沢村賞)が設立、南海の別所昭(のちに巨人に移籍、別所毅彦に改名)が受賞した。
(1950年の2リーグ分裂後はセントラルリーグの投手が対象、1989年からはパシフィックリーグの投手も対象、全球団が対象になる)。メジャーで言えばサイ・ヤング賞みたいなもので、沢村賞が真似たと言われることがあるが、先に制定されたのはこちらである(サイ・ヤング賞は1958年制定)。

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