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清原和博

きよはらかずひろ

西武ライオンズ、読売ジャイアンツ、オリックス・バファローズに在籍していた元プロ野球選手。
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概要編集

高校一年生から名門校だったPL学園の四番として活躍し、甲子園を沸かせる日本最高峰のバッターとして注目され、いざプロ入りを果たすとメキメキ実力をつけて新人本塁打記録の最多タイ記録を達成するなど期待以上の活躍を見せ、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の黄金時代の中核を担った。

本人は当初天理高校野球部に進学予定だったが富田林の少年野球チームのコーチにPL学園野球部をスカウトされ、PL学園に進学したエピソードがある。この時母親の親戚は天理教に信仰してたので一時期本人の為に母親自身が天理教に入信するも清原がPLに進学決定と同時にPL教団に改宗したと自身の本書に書かれている。


主要な打撃タイトルを獲得していないため、無冠の番長と呼ばれていた。しかし通算成績2122安打・525本塁打・1530打点を記録するなど、球界を代表する名選手の一人であったことに異論は無いだろう。因みに、通算196死球は未だ誰にも破られていない歴代最多のアンタッチャブルレコードでもあり、さらには通算1955三振は2022年に中村剛也に破られるまで歴代最多でもあったことから、良い意味でも悪い意味でも彼が激しい内角攻めにさらされた球界屈指の強打者であった証拠でもあり、球界の番長と呼ばれている最大の所以でもあろう。

そのいかついキャラクターに反して激高しない限り野球に対するマナーは真摯で、フィールド上で唾を吐くこともなく毎日グラブバットを完璧に手入れしてから寝、仲の良い選手にすら許可なく触ろうとすると厳しく注意したという。


引退後はタレントや野球解説などで活動。モデル木村亜希と2000年に結婚(結婚以降は夫人も清原姓でモデル活動)しており、2児の父となった。

番長」と渾名され、オラオラ系のキャラ的な演出がメディアでされることも多々あったが、実際はかなり繊細な面もあったという。

今では即炎上案件になりかねない後輩イジリでも悪名高かったが、障害者になってしまった高校の先輩のために惜しみ無い援助をしたり、死球を食らわせた選手が引退後開いた飲食店にお忍びで来店するなど心優しい性格を表すエピソードも多く、体に入れた3匹の龍の入れ墨も単なるヤンキー趣味ではなく、離別した息子たちに対する彼なりの愛情表現だった(入れ墨については、盟友かつ逮捕後のお目付け役でもある佐々木主浩からの厳命より、除去施術により除去された)。

近年は現役時から引きずった膝の故障に加えて糖尿病を患う等体調的にも不安定であった。


応援歌編集

西武ライオンズ時代編集

『♫光輝く 日はまた昇る 燃える男だ チャンスに強いぞ清原』

西武時代の応援歌


読売ジャイアンツ時代編集

『♫勝利の一撃 空高く 放り込めバットに夢乗せて ホームラン清原』

(CD版)『♫藪から虎出る 空に竜 鯉を叩いて 横浜(ベイ)を退治 一気飲みヤクルト』

巨人時代の応援歌(CD版)

巨人時代の応援歌(通常版、前奏やコールなどあり)


オリックス・バファローズ時代編集

『♫闘え士(つわもの)よ 傷だらけのその体で 輝けこの場所で 威光放つ男』

オリックス時代の応援歌


来歴編集

1967年(昭和42年)8月18日生まれ、大阪府岸和田市出身の元プロ野球選手。

1985年(昭和60年)にPL学園高校から西武ライオンズ入団。渡辺久信工藤公康秋山幸二らとともに、西武黄金時代を代表するスター選手の1人となる。

西武ライオンズ在籍時にちびまる子ちゃんコスプレを披露。

1997年(平成9年)にFA権を行使して読売ジャイアンツに移籍する。その後は幾度もケガに泣かされた。

2004年(平成16年)に2000本安打を達成、翌2005年(平成17年)に戦力外通告。

2006年(平成18年)にオリックス・バファローズに移籍するも、リハビリに励む日々が続く。

2008年(平成20年)に歌手の長渕剛阪神タイガース金本知憲も駆け付け、盛大な引退セレモニーが行われた。

2010年(平成22年)、テレビ番組にてベースボールマフィアというあだ名を付けられる。



疑惑、そして転落編集

現役時代末期から彼には黒いお友達との交遊や薬物疑惑が時折報じられては噂が消える、といった繰り返しに見舞われるようになっていった。

2014年(平成26年)に一部報道にて「薬物中毒で入院」疑惑の記事が書かれたが本人は度々バラエティ番組等で否定していた。

しかし疑惑はくすぶりつづけタレント仕事も減って行き、2014年には亜希夫人が息子2人を連れ離婚(離婚後もしばらく芸名は清原姓にしていたが、現在は姓を外した「亜希」名義)、家族を失い窮地に立つこととなった。

その後病気療養や仕事に励み、2015年(平成27年)頃にはタレント仕事の量も戻りつつあり、疑惑を払拭したかに見えた。

しかし2016年(平成28年)2月2日覚醒剤所持の容疑で自宅に捜査が入り彼は逮捕され、自宅から常用を窺わせる注射器などの物証も発見され、かつてASKAを逮捕した警視庁の精鋭チームが長らく捜査を続行していたことが判明。

この逮捕の速報はかつてのスター選手の薬物事件として球界はおろか世間を震撼させてしまった。

その為、多くのファンやかつてのチームメイトや恩人等の野球関係者を嘆かせることとなったが、「やっぱり」との声も少なくなかった。この為、彼の覚醒剤使用はつい最近ではなく、彼が巨人にFA移籍してから逮捕されるまで約20年間も使用した疑惑があり、覚醒剤使用常習犯である疑惑も図らずも明るみに出てしまった(本人は「あんなもの使って野球なんてできない」と現役選手としての使用は否定)。プロスポーツの世界ではたとえ風邪薬だろうと違反となる成分が含まれているとペナルティが厳しい世界である為、何故発覚が大幅に遅れたのか疑問の声が出ている。またこのようなことから、清原の現役当時のNPBは事実上のドーピングフリーであったのではないかと指摘する声もある。また野球解説者及び野球評論家の張本勲は清原の逮捕に激怒し、「目の前にいたらぶん殴る。日本は島国で島が沢山あるから暫くそこで生活して更生してほしい」といった旨の発言をし、普段は「あっぱれ」か「喝」と言う張本もショックを隠せなかった。


また野球解説者の田尾安志は「自分が監督の時にうちの球団(東北楽天ゴールデンイーグルス)に来ていたらこんな事にならなかったかもしれない」と嘆いていた。


球界のみならず松本人志を始め共演した芸能人を中心に憤りやショックの声が挙がった。


かつての「KKコンビ」である盟友・桑田真澄は長らく清原をお節介なくらい気にかけており薬物の噂が出るたびに桑田曰く「小舅のように口うるさく」連絡し説教をしていたが、清原に疎まれ事件の3年前に絶縁されていた事も明らかになっている。桑田も今回の事件で沈痛な面持ちで残念な思いをコメントしている。

(また、PL出身の元アマチュア野球選手だった実弟とも絶縁状態になっていたことも判明している。


しかし清原の刑期満了後も桑田は清原を気にかけている発言をしたり、清原も桑田について言及する事がある。


尚、この事件の煽りを受け、コロコロアニキにて復活したかっとばせ!キヨハラくんも連載中止に追い込まれてしまった。

また、以前より野球殿堂入りも検討されていたが、この逮捕劇の影響でお流れとなってしまった。

同年5月31日懲役2年6ヶ月(執行猶予4年。弁護側が求めていた保護観察は無し)の有罪判決が下され、検察・弁護側双方とも控訴せず、6月14日に刑が確定した。

執行猶予期間中は刑期確定以降しばらくは活動を控えていたが、3年後には薬物依存に関しての講演活動を行ったり、裁判中証人として出廷した佐々木主浩と共に100回目の夏の甲子園を観戦したりと刑期明けを踏まえた活動を行っていた。しかし、前述の講演の3日後に職務質問をかけられており、警察のマークは依然と厳しい様子であり、その後も飲食店で食事中急に警察に任意同行を求められるといった状況にストレスを溜めているとされている。

2019年(令和元年)には子供向けの野球イベントを主催し、その前後で改めてメディアの取材に答えている。

それによると逮捕当時は激しい禁断症状もなかったために依存症である自覚もなく、コントロールできていると思い込んでいたという。

釈放後受診して重度の依存症である指摘を受け、逮捕された時の自分を忘れないようその時に着ていたシャツを部屋の目につくところに吊るし自らへの戒めとしているという。

またその年に母親が他界し、毎年命日になるとSNSで母親に対して感謝を述べている。


執行猶予期間満了後編集

2020年(令和2年)6月15日に執行猶予期間が満了し、本格的に評論家としての活動を再開。YouTubeチャンネルを開設した。

また大神神社三輪大社)を始め有名な神社仏閣に参拝してるとSNSで公開した。


2022年(令和4年)には中日ドラゴンズ2軍キャンプ取材の為沖縄県を訪れた際、那覇市内の交差点で発生した交通事故に遭遇。たまたま現場を車で通りかかった清原は、車を運転及び同乗していたスタッフ2人と共に事故現場で救助活動を行った事が報道された。かつて悪い意味で警察の世話になった清原だが、今度は良い意味での警察絡みの話題となり、翌年に沖縄県警那覇警察署からスタッフと共に感謝状を受け取っている。清原は「人命救助は当然」「怪我をしているのがわかったので何かできないかと思った」とコメントし、彼の純粋な人柄が改めて浮き彫りになった。


元妻の亜希とも現在は穏やかな距離感を保っているようで、息子達とも連絡は取れる間柄である模様。

次男・勝児は2023年(令和5年)に慶應義塾高校のメンバーとして甲子園に出場、父子での優勝を果たしたが、清原が東京予選や甲子園のスタンドで嬉しそうに観戦している様子を見せている。


プロ野球界で一番もったいない大選手編集

現在から30年前の1980年代のPLは清原・桑田の『KKコンビ』を筆頭に数々な名ドラマを生み出し、PL黄金時代という一大旋風を巻き起こした。彼もプロ入団時のインタビューで「プロでの目標はサダハル・ワンの通算868本塁打を超えたいです」とも公言した。


勝負事で「たら・れば」はタブーなれど、堤義明氏の溺愛(参照・本記事の過去版へのリンク)から端を発した連夜の豪遊をド派手にしても、名球会入りに値する実績を素質・才能だけで残しただけに、もし彼がプロ入団時から現役引退まで野球にストイックに打ち込み、苦手としてついに克服できなかった内角攻めへの対策も成しえていたら、タイトル獲得はもちろんのこと、王氏に並ぶことも決して夢物語ではなかっただろう。また清原も他の球団に行ったならこんな事にならず、仮にPLではなく天理高校か他の高校に進学してたらKKコンビは出なかったが野球選手として全うに活躍して結果を残したり、また野球選手にならず一般人として社会人生活や実家の家業を後継ぎしたり、そもそも違法薬物に手を出さず幸せな生活してたかもしれない。


ところが誰よりも有り余る素質・才能・体格に恵まれていても、ルーキーイヤーからちやほやされド派手な豪遊で若い頃の不摂生が崇り、結局打撃主要タイトルも1回も獲得できないまま『無冠な番長』として現役を終えた彼はプロ野球界で一番もったいない大選手になってしまった。これだけの大記録を保持しておきながらも「育成失敗」と揶揄されるのも、彼にかかった期待の大きさの表れでもあり後に本人も「1年目で成功してプロを舐め切っていなければ」と後悔している。


背番号編集

背番号使用年所属チーム
31986年〜1996年西武ライオンズ
51997年〜2005年読売ジャイアンツ
52006年〜2008年オリックス・バファローズ

関連タグ編集

かっとばせ!キヨハラくん:西武時代の清原をモデルにした漫画。

モリモリッ!ばんちょー!!キヨハラくん:巨人時代の清原をモデルにした漫画。

無冠の帝王 引退したプロ野球選手一覧 番長

長嶋茂雄:少年時代からの憧れで、後に監督として清原をジャイアンツに迎え入れた。

石橋貴明:番組等で深く交流があり、薬物事件の後も番組や自身のYouTubeで共演したり何かと気にかけていた。

江夏豊:清原同様に現役を退いた後に覚醒剤取締法で逮捕された名選手。こちらは実刑判決を受け収監されている。逮捕・収監後に野球殿堂入り候補から除外されたが、その後の本人の賢明な社会貢献活動の成果か、現在は阪神タイガースで臨時コーチとしての活動を行うなどある程度許されてきている。また、名球会からは清原と同様除名処分を受けていない。

吉永小百合:西武時代の清原のファンであったが、巨人入団会見でデレデレと笑っていた清原に幻滅して「ファンを辞める」と憤慨していた。

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