経歴
プロ入り前
泉尾(いずお)高校から同志社大学に進学し、大学時代は首位打者を獲得するなど、打撃センスに優れていた。
1975年のドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名され入団。
中日時代
1981年から1983年まで3年連続で外野手のベストナインに選ばれ、1982年から1984年まで3年連続で最多安打のタイトルを獲得(1994年より表彰)。その間の1982年には、チームはリーグ優勝しており、田尾はリードオフマンとして大きく貢献した。
しかし、1984年のオフに大石友好とのトレードで西武ライオンズへ移籍。
チームの顔だった田尾の放出に、中日ファンがトレードを撤回せよという騒動まで起こる事態となった。
西武時代
西武に在籍したのは2年だけだったが、1985年と1986年のどちらもリーグ優勝。さらに'86年は日本一にも輝いている。
阪神時代
1987年に少年時代からの憧れだった阪神タイガースへ移籍。勝負強さを買われて晩年は代打での出場が多かった。1991年限りで現役引退。通算安打数は1560本。
初代楽天監督
現役引退後は野球解説者として活動していたが、2004年のプロ野球再編問題の末に新しく出来た球団東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督に就任した。
しかし、ロッテとの初戦こそ3-1と勝利したものの続く第2戦は0-26の惨敗。
その後も黒星を重ね、8月に早々と最下位が確定。最終的に38勝97敗1分で、5位の日本ハムから25ゲーム差、レギュラーシーズン1位のソフトバンクからは51.5ゲーム差も離された。
2年契約だったが、成績不振やフロント幹部との確執の激化などが影響して、契約を1年残して解任された。なお、選手の起用方法についての意見の相違からオーナーの三木谷浩史と一時期対立していたものの解任決定までは来期以降の続投を望むなど退任前後まではある程度改善したものの、それ以上にチーム編成やチーム作りの方針を巡って口論になるなどフロント幹部との関係は非常に険悪であった。
田尾自身、解任後のインタビューや講演会・対談などで三木谷のみならずフロント幹部への不信感を吐露し「自身は三木谷と直接対話することを望んでいたが、仕事の多忙を口実に部下を通じてしか話をさせてもらえなかった」・「三木谷の部下たち(フロント幹部)は、試合の結果ばかりしか目が行っていなかった」と主張するなど、再三にわたって非難している一方で、当時の球団社長であった島田亨をはじめとするフロント幹部も、「三木谷は実際に本社での業務が多忙で自分たちとも連絡が取れる状況になかったため口実にしていたわけではない」・「選手層が薄いことは自分たちでも分かっていたし、それを田尾のせいにしたわけでもない」・「自分たちとの会談の際に協調性や計画性に欠いた言動を繰り返し、選手陣のミスプレーや選手層の薄さを論うばかりで今後を踏まえたいフロント側の問いかけに真摯に応じる素振りを見せなかった」と主張するなど、田尾・フロントでは真っ向から言い分が対立しており、両者間の深い溝が象徴されている。
監督退任後
監督退任後は再び野球解説者として活動。
2013年に楽天がリーグ優勝や日本一に輝いた時には初代監督として楽天を称えた。
2019年、令和時代初のプロ野球チームとなる琉球ブルーオーシャンズのゼネラルマネージャーに就任。翌年には「指導者として、もっと現場に立ちたい」という自身の意向で同球団の打撃総合コーチとの兼任でシニアマネージャーに肩書を変更したことが発表され、楽天監督以来の指導者就任となった。
また、同年には自身の公式YouTubeチャンネルを開設し、野球評論や解説に加えて、様々な球団OBとの対談動画をアップしている。
人物
少年時代のイチローは田尾のファンだった。
相手が上司だろうとハッキリ物を言う性格のため、中日時代がそれがアダとなってトレードに出されてしまうが、西武時代は監督の広岡達朗にも同様に毅然とした態度を取り、対等な関係を築こうとしていた。
妻の田尾宏子はMADAM REY(マダム・レイ)の名前で芸能活動をしている。
歯科医師の田尾耕太郎は長男。
田尾自身はギターを趣味としており、さだまさしとの交友が深い。また、次男と長女は音楽に携わっている。
早生まれではあるが、中畑清(田尾と2日違いの1954年1月6日生まれ)が会長を務めるプロ野球28会の会員である。
関連動画
中日時代の応援歌
ヒットを狙え 今だガッツを見せろ
一発頼むぞ 我らの安志
※原曲は「鉄腕アトム」。
田尾鮮やか 流し打ち
右に左に火を噴く 田尾のバット