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西武ライオンズ

せいぶらいおんず

埼玉西武ライオンズの1979年から2007年までの名称。現在の埼玉西武の略称の一つでもある。
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詳細は埼玉西武ライオンズ参照。

チーム名は2008年に「埼玉西武ライオンズ」になったが、
球団経営を行っている法人は株式会社西武ライオンズのまま。

成績

順位監督
1979年6位根本陸夫
1980年4位根本陸夫
1981年4位根本陸夫
1982年1位広岡達朗
1983年1位広岡達朗
1984年3位広岡達朗
1985年1位広岡達朗
1986年1位森祇晶
1987年1位森祇晶
1988年1位森祇晶
1989年3位森祇晶
1990年1位森祇晶
1991年1位森祇晶
1992年1位森祇晶
1993年1位森祇晶
1994年1位森祇晶
1995年3位東尾修
1996年3位東尾修
1997年1位東尾修
1998年1位東尾修
1999年2位東尾修
2000年2位東尾修
2001年3位東尾修
2002年1位伊原春樹
2003年2位伊原春樹
2004年2位伊東勤
2005年3位伊東勤
2006年2位伊東勤
2007年5位伊東勤


2004年はレギュラーシーズンは2位だったが、この年から導入されたプレーオフ(現クライマックスシリーズ)で1位の福岡ダイエーホークスを破り日本シリーズに進出。
日本シリーズでも中日ドラゴンズを破り、史上初の2位チームによる日本一となった。

略史

根本監督時代

1978年オフ、クラウンライター・ライオンズ西武グループが買収し、球団名が西武ライオンズとなり、本拠地福岡県福岡市から埼玉県所沢市に移転した。
シーズンオフには阪神とトレードを行った。
真弓明信若菜嘉晴らを放出し、田淵幸一古沢憲司らを獲得する。
ドラフトでは1位で森繁和、ドラフト外で松沼博久松沼雅之兄弟を獲得し、また、ロッテを自由契約になっていた当時43歳の野村克也を獲得している。

新体制でスタートした1979年開幕から12連敗といきなり躓き、西武初年度は最下位。
(なお、2017年時点ではこれが最後の最下位である。)

続く1980年には、野村克也が3000試合出場の大記録を作り、同年限りで現役引退。(なお、野村の記録は2015年谷繁元信に更新される。)
ドラフトでは1位で石毛宏典を指名した。

1981年は惜しくも4位。この年で土井正博が引退する。
ドラフトでは1位で伊東勤、6位で工藤公康が入団する。

広岡監督時代

根本の後任となったのは、1978年ヤクルトを初優勝に導いた広岡達朗。広岡は管理野球を標榜し、食生活などの切り替えなどを行った。

1982年は前期を優勝すると、プレーオフで後期優勝の日本ハムを破り、所沢移転から4年目、西鉄時代の1963年以来19年ぶりに優勝を成し遂げる。
日本シリーズでは中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、1958年以来24年ぶりの日本一に輝いた。
また、ここから2006年まで25年連続でAクラスを維持する

前後期制が廃止された1983年にもリーグ優勝を成し遂げ、巨人と戦った日本シリーズは第7戦まで縺れた末に4勝3敗で2年連続の日本一を達成。
オフには日本ハムから江夏豊を獲得した。

しかし、1984年はベテラン陣が軒並み不調に陥り3位。田淵・山崎裕之は同年限りで引退。江夏もわずか1年で退団となった。

1985年は前年の反省を踏まえて若手選手を積極的に起用。
秋山幸二辻初彦工藤公康渡辺久信などが躍動し、2年ぶりに優勝に輝く。
日本シリーズは阪神タイガースと対戦。ランディ・バースに第1戦から3戦連続でホームランを打たれるなど猛虎打線に屈し、2勝4敗で敗退。
また、痛風を患ったこともあり、広岡監督はこの年で辞任を表明した。

森監督時代

広岡の後任には、参謀として補佐していた森昌彦が監督になる。(就任と同時に「森祇晶」に改名。)ドラフトでは6球団競合の末、清原和博を引き当てた。

1986年は、ルーキーの清原が31本塁打を放ち文句なしの新人王に輝くなど、前年に続いて連覇を達成。
広島と戦った日本シリーズは、第1戦が引き分けになり、第2戦から3連敗と追い詰められたが、第5戦から4連勝。史上初の第8戦まで縺れた死闘を制した。
ちなみに、秋山がバック宙でホームインしたのは、第8戦である。

続く1987年もリーグ優勝。日本シリーズでは4年ぶりに巨人と対戦し、清原が桑田真澄と戦う「KK対決」を制し、2年連続の日本一となった。
3勝2敗と西武王手で迎えた第6戦では、辻が相手守備の隙を突いて一塁から一気にホームイン。
日本一目前には、一塁手の清原が涙ぐみ、二塁手の辻に慰められる一幕も見られた。

1988年は、秋山・清原・バークレオと並ぶ「AKB砲」が猛威を振るう。「10.19」の結果、西武が4年連続のリーグ優勝。
日本シリーズでは中日を4勝1敗で破り、3年連続の日本一。(昭和で最後の日本一)レギュラー達が最も充実していた黄金時代であった。
この年限りで西鉄時代からの生き残りであった東尾修が引退した。

平成最初のシーズンとなった1989年は、前半戦が波に乗れない状態だった。しかし、6月に入ると勢いを取り戻し、近鉄オリックスとの接戦となったが、近鉄に優勝を奪われ3位。
前半戦の出遅れが最後まで響き、これが結果的に森政権で唯一のV逸となった。
シーズン終了後、森監督は堤義明オーナーから「監督をやりたければどうぞ」と言われた。

1990年は前年にストッパー不在で優勝を逃した要因を踏まえて、巨人から鹿取義隆を獲得。主力選手が最も充実していた時期であり、2年ぶりにペナントを奪還した。
巨人との日本シリーズは、2位広島に22ゲーム差をつけていたために「巨人が有利」という声が大きかったが、その予想を覆す4タテで一気に日本一を決めた。(それも4戦すべて4点差以上のゲームだった。4試合の総得点は28-8。)

1991年は中盤近鉄に一時首位を奪われたが、9月に近鉄をかわして2年連続のリーグ優勝。
日本シリーズは5年ぶりに広島と対戦。
5戦を終えて2勝3敗と追い込まれるが、ホームに戻って連勝を決め逆転日本一を飾る。

1992年も危なげなく優勝を決める。
日本シリーズはヤクルトスワローズと対戦。この年の日本シリーズは第7戦まで縺れ、1・5・6・7戦が延長戦になる文字通りの死闘であった。
第1戦は延長12回にヤクルトの杉浦亨代打サヨナラ満塁ホームランで勝利。
第2戦から西武が3連勝し王手をかけるが、ここからヤクルトが驚異的な粘りを見せる。
第5戦は6-6の延長10回に池山隆寛が決勝ホームラン、神宮に移った第6戦は7-7の延長10回に秦真司サヨナラホームランで3勝3敗のタイになる。
最終第7戦は1-1のまま3戦連続4度目の延長戦となる。延長10回表1死三塁で秋山が犠牲フライを放ち、これが決勝点となった。
先発の石井丈裕は10回155球を投げ1失点に抑え、文句なしの日本シリーズMVP受賞となった。
3年連続の日本一はこの年の西武が最後となっている。

1993年のペナントレースは日本ハムとの争いになるが、長年の勝負勘で4年連続リーグ優勝を決めた。
日本シリーズは前年同様ヤクルトとの対戦になった。
前年とは逆に第4戦までで1勝3敗と追い込まれたが、第5戦・第6戦を連勝してまたしても最終戦に縺れた。
最終戦では1回表にヤクルト広沢克己が3ランを打てば、その裏に清原が2ランを放つ。しかし、この1点差が最後まで重くのしかかり、8回に1点を追加され、最後は高津臣吾に抑えられ万事休す
4年連続の日本一はならず、森監督は巨人の現役時代から続けていた日本シリーズ20連勝が途切れた。
オフには、ダイエーとのトレードを行い、秋山幸二ら3人を放出し、佐々木誠ら3人を獲得。

1994年は西武苦戦の予想もあったが、4月から首位を譲らずリーグ5連覇を達成。パリーグでは2017年現在でもこれが最長リーグ連覇である。
日本シリーズは4年ぶりに巨人と対戦するが、2勝4敗で2年連続の日本シリーズ敗退。
森監督はこの年を以て退任。黄金時代の終焉となった。
シーズンオフには工藤と石毛がダイエーに移籍した。石毛は森監督の後任として推されていたが現役に拘り固辞。後任は東尾が就任した。

「西武ライオンズ」時代に入団した現役選手

※2017年終了時点。太字は現在も西武に所属している選手。

※屋根がない西武ライオンズ球場時代を知る最後の選手。


関連動画

↓球団歌「地平を駈ける獅子を見た」歌は松崎しげる


↓応援歌「吠えろライオンズ」


↓応援歌「若き獅子たち」


関連イラスト

↓ホームユニフォーム(通称・ライオンズブルー)。モデルは秋山幸二

秋山幸二


↓ビジターユニフォーム。モデルは清原和博

清原和博



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