1988年、中日ドラゴンズに入団。中日の外国人選手は当時、ゲーリー・レーシッチと郭源治と実績ある2人がいて(当時外国人枠は2人)、1軍出場の機会もなく、来る日も2軍戦で三振をしていた。
そんなブライアントに転機が訪れたのは、近鉄バファローズの主力打者のリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕、解雇される事件が起きたからで、近鉄はデービスの代わりの選手として、この大型扇風機のブライアントを獲得した。しかし、大麻不法所持で解雇とは言え、それまでの平均打率.330というバッターの後釜はそうそう務まるはずもなかった・・・
・・・のだが、周囲も期待こそ一応していたものの、まさかデービスの代わりにはまずならないだろう、と思われていたブライアントはまさに「大当たり」であった。
その年、74試合出場ながら34本塁打(前年デービスはケガもあり91試合で18本、1987年に旋風を巻き起こした『赤鬼』ボブ・ホーナー(ヤクルト)は93試合で31本。またこの年の本塁打王はセ・リーグがカルロス・ポンセ(大洋)の33本、パ・リーグが門田博光(南海)の44本で両者とも130試合全試合出場)、1試合3本塁打を2回記録するなど、この年優勝争いこそしていたものの、一時西武に最大8ゲーム差をつけられ、大苦戦を強いられていた近鉄にとっては救世主となった。
近鉄の優勝がかかった10.19でも父親が危篤という状況下で日本に残り、出場。第2試合では本塁打を放ち、最後の攻撃となった10回表には内野ゴロが悪送球となり出塁するなど活躍、試合は引き分けて優勝は逃したものの、ブライアントの貢献度ははかりし得ないものがあった。
1989年は前年以上の大混戦で、序盤オリックスが抜けだし、その後西武と近鉄との3つ巴の優勝争いとなったが、一時スランプになっていたものの、ブライアントは1試合3本塁打を3度記録するなど、調子を取り戻した。
西武絶対有利で迎えた最終盤の10.12対西武ダブルヘッダー、第1戦は序盤で5対1とされ、もはやこれまでと思われたが、満塁の場面でブライアントは同点となる満塁本塁打を放ち、その後渡辺久信から逆転のソロ本塁打など3打席連続本塁打6打点とすべての点をたたき出して6-5で勝利。続く第2試合でも、敬遠の後の第2打席で4打数連続本塁打日本記録タイ記録、1試合3本塁打6度は王貞治が22年かけて記録した5度を2年で抜く新記録。この後近鉄は打ちも打ったりで14対4で圧勝。続くダイエー戦で優勝決定し、ブライアントはこの年49本塁打、当然ながらMVP獲得である。
なお、この4打数連続本塁打は、優勝決定試合の本塁打ではなく、さらに近鉄の優勝がかかった試合での本塁打は後に2001年の北川博敏の優勝決定本塁打の方が有名となるが、こちらは優勝決定試合と言っても残り5試合を残した状況で負けてもまだ優勝の可能性は大きくあったが、この年のこの時の4連発は、(負ければ優勝できなかったわけではないが)絶体絶命の状況下からの、起死回生の優勝に大きく前進したホームランとして記憶される事になる。
近鉄時代の優勝は1989年だけであったが、以降も西武と近鉄は激しい優勝争いを繰り広げる事になる。89年以降は2度本塁打王を取るが、三振王も在籍8年で5回(88年、91年、95年はそれぞれの理由でシーズンフル出場していない為)とるなど、こちらはブライアントの独壇場であった。本塁打、打点王を取った1993年には204三振の日本プロ野球記録(当時メジャー記録より上で、2009年まで上回る事はなかった)を樹立。典型的な「三振かホームランか」というバッターだった。
ちなみに、当時近鉄には奪三振の代名詞投手、野茂英雄が在籍しており、当然ながら、公式戦で対戦する機会はなく、どちらか他球団にいればお互いの三振数がさらに激増してたはずで、そういう意味では残念な結果となっている。
ホームランに関するエピソードは数多くあるが、西武戦での4連発と共に記録と記憶に残るホームランとしては東京ドームの天井スピーカーに直撃させた事だろう。1990年の日本ハム戦で角盈男からで、打球が届かないように設計され、到底当てる事は不可能と言われていたが、開場3年目であっさり記録した。推定飛距離160メートル。特別ルールでホームランと認定された(後にズレータも達成)。