来歴
輔仁大学卒業後、兵役により台湾の陸軍(中華民国陸軍)に入隊。
1981年のシーズン途中に中日ドラゴンズに入団。(兵役終了後に来日)
背番号は30→33。
来日当時は先発投手として活動し、まずまずの働きを見せる。
それまで抑えを務めていた牛島和彦が、落合博満とのトレードでロッテオリオンズに移籍したことで、星野は新しい抑えとして郭を抜擢した。
郭はその期待に応え、87年には最優秀救援投手のタイトルを獲得する。
翌1988年、中日は尻上がりに調子を上げ、1982年以来6年ぶりとなるリーグ優勝を成し遂げる。
セリーグMVPに選ばれ、優勝の立役者となった郭だったが、実はこの年、弟を交通事故で亡くしており、優勝を決めた試合では涙を流していた。
闘志をむき出しにしたダイナミックな投球フォームで、「踊る守護神」の呼び名がついた。(出典は「燃えよドラゴンズ'88」)
1989年に日本国籍を取得し、本名が「佳久源治」となるが、登録名はそのまま「郭源治」だった。(ちなみに、「郭」と「佳久」はどちらも画数が同じ11画である。)
1990年代に入ってからは、チームの状況に応じて、先発とリリーフの両面をこなす。
1994年には最優秀防御率のタイトルを獲得したものの、チームは巨人との最終戦で優勝を逃し、その試合(いわゆる「10.8決戦」)には登板機会はなかった。
1996年を以って、中日を退団。奇しくもこの年でナゴヤ球場は一軍本拠地としての役目を終えた。(翌1997年からは二軍本拠地となる。)
その後は台湾代表選手として現役を続け、1999年を以って現役を引退する。
通算成績は106勝106敗116セーブ。100勝100セーブの達成者はNPB史上5人目。
台湾出身のプロ野球選手の草分け的存在であり、西武ライオンズ(後に埼玉西武ライオンズ)の郭泰源、ロッテオリオンズ(後に千葉ロッテマリーンズ)の荘勝雄と並んで、台湾では「二郭一荘」と讃えられる英雄で、台湾代表の背番号33は永久欠番となっている。
引退後は名古屋で台湾料理のレストランを経営していたが、台湾プロ野球の要職に就任するため2013年に閉店した。
夫人は元JAL(日本航空)のキャビンアテンダントで2男2女(男子は双生児)をもうけた。
俳優で次男の佳久創はかつてラグビー日本代表にもなったことがある。創が2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で武蔵坊弁慶役に抜擢されたこともあって父親の源治も再び話題になった。そして、2023年には俳優の登竜門とされるスーパー戦隊シリーズ第47作品目である『王様戦隊キングオージャー』のカグラギ・ディボウスキ/ハチオージャー役を破竹の勢いで射止め、さらに話題の風を起こしている。
関連タグ
小山伸一郎:郭の次に背番号33を着けた人物。