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概要

平安時代末期の僧侶(僧兵)。身長2m強の大男で、武勇に優れる。

出生年は不明だが熊野三山別当の息子で、比叡山で暴れた末に放火騒ぎを起こし追い出されたといわれる。

で武者達から奪い取っていたが、1000人目となった牛若丸(のちの源義経)と五条大橋or清水寺で戦って敗れ家来となったという。


その後は義経と共に奥州藤原氏の元に身を寄せるが、源頼朝挙兵に伴い源平合戦に参加。木曽義仲討伐やら鵯落としやらに参加し、屋島の戦いでは「なんか暗いから、民家に火をつけて明るくしようぜ」ととんでもないことを言い出した義経に対し「じゃあ拙僧にお任せを」と言ってまたも放火、更に幻術(今で言う所の集団催眠)を用いて平家を攪乱した。

こうして弁慶は壇ノ浦の戦いでも奮戦、平家は滅亡した。


義経が後白河法皇の策に嵌り頼朝から追われた際も付き従った忠臣であった。

そして平泉の長・藤原泰衡が裏切って義経を殺そうとした際には迫る奥州軍を相手に孤軍奮闘し、大量のが刺さって立ったまま死んだという。


実在を疑う説も多いが、『吾妻鏡』にも弁慶の名があり、モデルがいたという説もある。

後世になり、「義経記」などの記述を元に作られた歌舞伎で庶民に人気を博し浸透していった。

特に出身地とされる和歌山県田辺市では人気がとりわけ高く、毎年「弁慶祭り」が行われるなどしている。


なお僧侶であったがために生涯妻帯は愚か女性と付き合ったこともなく、江戸時代には「弁慶と 小町は 馬鹿だなあカカア」という非リアざまぁw的狂歌が作られたことで知られる。が、一説によれば男はノーカウントだったとかいう説もある


また、『ゲッターロボシリーズ』の登場人物である巴武蔵車弁慶モチーフとなり、作者の一人永井豪も武蔵坊弁慶の生涯を『豪談武蔵坊弁慶』でコミカライズした。


弁慶から派生した言葉

弁慶の七つ道具

『義経記』では、弁慶が武器として持ち歩いていたものとして薙刀熊手大槌、さすまた、突棒、袖絡を挙げており、これが後に「七つ道具」の語源となった。が無いのは持ってて当然だからだろう。

転じて、台所で使われる穴の開いた竹筒(調理用具立て)を弁慶が七つ道具を背負う姿に見立て「弁慶」と称する。


内弁慶の外地蔵

身内の間では弁慶のように威張り散らしているのに、外に出るとお地蔵様のようにおとなしくなることのたとえ。


弁慶の泣き所

向う脛の事。鍛えようがないのでこう称される。

転じて「強者のただ一つの弱点」の例として挙げられ、西洋ではギリシャ神話英雄の逸話から「アキレス腱」と呼ばれる。


魁!!男塾 民明書房大全』では、

「蒙古仁義素汗の一族には血誓痕生の風習があり、仲間の名を腕に刻み、無念を果たすために戦い抜いた。

 さて、それとは別に遡る事数十年前、海を隔てた日本では武蔵坊弁慶が討ち死にした折、その腕に『義経』と彫られていたという。一説によれば、弁慶が脛が弱かったのは、この腕の彫り物を守る為に防御が薄くなっていたからだとされる。

 そして、仁義素汗が天寿を全うした時にも、その腕には確かに『弁慶』と彫られていた」

という、中々乙な解説が記されている。


弁慶の立ち往生

矢の雨にさらされ「立ったまま死んだ」という壮絶な死に様の逸話から「立ち往生」という言葉が生まれたが、これは現代科学で考えてもあり得る現象である。詳しくは当該記事にて。

また、転じて自然災害で道路が寸断されるなど「後にも先にも引けない状態になる」事を比喩して「立ち往生」と言う事もある。


ぎなた読み

○「弁慶が なぎなたを持って さしころして」

×「弁慶がな ぎなたを持ってさ しころして」

というように、間違ったところで切って読むことのたとえ。


関連タグ

静御前 那須与一 伊勢三郎 佐藤継信 佐藤忠信 常陸坊海尊

典韋  どら焼き 勧進帳

平家物語 通り魔

源平討魔伝

岩融(所持していた薙刀)


弁慶に関する創作


弁慶をモデルにしたキャラ


パロディ・コスプレ

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