生没年 久寿元年(1154年)~寿永3年1月20日(1184年3月4日)
概要
河内源氏の一族、河内源氏の棟梁・源為義の次男・源義賢の子として生まれる。幼名は駒王丸。木曽の中原氏によって育てられ、女武者として有名な巴御前や重臣の今井兼平、樋口兼光らとは幼馴染あるいは兄弟に近い間柄にあった。源頼朝・源義経の従兄弟にあたり、頼朝とともに源氏の指導者の1人に数えられている。
生涯
義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は父・義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる。
幼少時、父・義賢は兄・源義朝の長男・源義平に殺害され(義賢は関東での利権を巡って義朝・義平父子と対立していた)、斎藤実盛らによって、木曾の豪族、中原氏に匿われ成長する。通称を「木曾次郎」と呼ばれた。
治承4年(1180年)、叔父・源行家のもたらした以仁王の令旨を得て平家追討の兵をあげた。以仁王の遺児・北陸宮を抱え、北陸方面から京を目指し、平家の赤旗を持って城資長を騙し討ちした横田河原の戦い、火打城の戦い、般若野の戦いの戦いに勝利して勢いづく。寿永2年(1183年)、加賀国と越中国の境にある倶利伽羅峠において平維盛率いる大軍を敗るが(砺波山の戦いともいう)、平維盛の首を取っていなかったため、明確な手柄を京に持ち込むために周辺地域の首狩りを実施。その結果、かつての自分の命の恩人である斎藤実盛を殺してしまう。
都落ちした平家に代わって入京するも、意気揚々と上洛した義仲に待っていたのは無政府状態になった京という平家都落ちによる負の遺産であった。
日の出の勢いとも言える義仲に対して、京では「朝日将軍(旭将軍)」の称号で呼ばれたが、その後の義仲の皇位継承への介入、指揮系統の乱れ(尾張の行家、甲斐源氏、北陸の勢力、常陸の義広など混在していた)・補給線が伸び切ってしまうなどのトラブルから略奪・狼藉を働く将兵が相次ぎ、更に水島の戦いで敗北、挙兵から着いてきた矢田判官代足利義清(頼朝重臣の足利義兼の庶兄)らが戦死、更に略奪の激化や武士の離反が加速、都における評判はまたたく間に失墜。その間に法皇は鎌倉に拠点を置く源頼朝に義仲追討の命を下した。ここで院近臣となった行家との関係が悪化、義仲は四面楚歌になり、苦肉の策として、法住寺を要塞化し挑発しまくってた後白河法皇を襲撃して幽閉し、東から攻め寄せる鎌倉勢に備えた。義仲はこの際に九条兼実の兄松殿基房の仲介により征東大将軍(頼朝=東夷として捉えた)に任じられている。これは言うなれば、朝廷による義仲へのご機嫌取りである。
寿永3年1月20日(1184年3月4日)、義仲は頼朝が派遣した源範頼・義経軍と戦って敗れ、近江国粟津ヶ原で戦死した。享年31。その最期は、まず巴御前を逃がした後、今井兼平が敵の大軍を食い止めるために囮となるも、義仲の馬が深田に足を取られて動けなくなってしまい、不幸にも脳天に流れ矢に当たって討たれたと言われている。
朝日将軍は落日の様も太陽そのものであった。
評価
義仲は若くして英雄の資質を有し、武勇と風采そして人情を備えていたが、田舎育ちで公家文化に疎かった。それゆえ格式としきたりを重視する朝廷に受け入れられず、何より武士が何を基準に動くかという基礎的な常識に気付けなかったが故に滅び去るしか道は無かったのである。
「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしかりけり」
「色白う眉目は好い男にて有りけれども立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」(『源平盛衰記』)
便女であった巴御前とはよく夫婦であると説明されるが、意外にも二人は婚姻関係を結んでおらず、正式な夫婦ではない。そもそも巴は当時の一次資料にはその存在が確認されておらず、『源平盛衰記』などの軍記物にしか登場しないため、創作の人物であるという説が強く、実在はしないというのが通説である。
もっとも、幼馴染であり共に動乱の世を駆け抜け、最期は悲壮な別れを遂げた男女という点が多くの人の琴線に触れたのか、この二人をモチーフにした創作物は少なくない。ちなみに有名な倶利伽羅峠の火牛の計だが、軍記物としても信憑性が低い『源平盛衰記』にしか記述が無く、『平家物語』にすら無い上に、当時牛はこの地域に生息していないことから、後世の創作であるということが証明されている。
粟津の戦いにて敗走し、付き従うのは重臣の兼平のみとなったが、義仲は彼に対し「これまでは何とも思わなかった鎧が、今日は重くなったぞ」と初めて弱気な発言をしてしまう。幼馴染でもあった兼平にこそ吐くことができた弱音であった。それに対し、兼平は「どうして一着の大鎧を重くお思いになるのでしょうか」と義仲を励ました。
また、兼平は敵方の取るに足らない武士に主君が討たれるくらいなら、と自害を進言するも、義仲は兼平とともに討死することを望み、これを拒む。その後、主従は戦場で共に最期を迎えた。
『平家物語』巻八「猫間」では、1183年に義仲のもとに京の猫間(幕末の新撰組の屯所があった壬生のこと)に居住し中納言に就いていたため「猫間中納言」と呼ばれていた藤原光隆が訪れたことがあった。この時、義仲は「猫が人に面会か」と嘲笑いつつも自宅に招いた。さらに、「貴重な無塩(ぶえん。塩魚に対して当時貴重だった生魚)」と称して食事を光隆に出したが、それは古くて薄汚れた大きな木の椀に飯とヒラタケを盛ったもので、光隆からすると理解しがたい光景であった。その光景にドン引きする光隆に義仲は「汚いと思いめさるな。それは自分が大事なお客様をもてなすために用いるものです。冷めないうちに早くお召し上がりください」という。しぶしぶ光隆は食べるふりをして箸を置いた。よせばいいのに義仲は「猫殿は少食ですな。猫が餌をちょっと食べて残すようだ」と笑ったという。
この不埒な扱いに腹を立てた光隆は用件を述べず帰宅し、そして金輪際源氏の武将と親交を持たなくなったという。ちなみに光隆の次男は百人一首に登場する従二位家隆こと「壬生二位」藤原家隆である。
長野県歌の「信濃の国」では木曽義仲も郷土の英雄として扱われている。しかし彼は実際は埼玉県(武蔵国)の出身である。
松尾芭蕉は義仲の生涯に思いを馳せ、遺言により死後義仲寺に祀られている。
芥川龍之介は「男らしき生涯也」と「木曾義仲論」にて絶賛している。
関連人物
源義賢 - 父、源為義の次男。
中原兼遠 - 育ての親。
木曾義高 - 嫡男。
巴御前 - 妾。家臣。兼遠の娘。
山吹御前 - 侍女。巴御前と共に武将として活躍した。
今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠 - 配下。義仲四天王と呼ばれた。
覚明 - 右筆。
関連書籍
百錬抄 吉記