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源為朝

みなもとのためとも

平安時代末期の河内源氏の武将。古今無双の弓の名手として知られる。
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プロフィール編集

生没:1139年~1170年?

通称:八郎、鎮西八郎、筑紫の八郎

諱:為朝


後述のように桁外れの逸話を数々残し日本史上最強の武士の呼び声も高く、まさに「あんたほんとに人間ですか!?(汗)」と言いたくなるレベルである。


このためか、ネット上ではジャパニーズ呂布とか平安時代のモビルスーツと呼ばれている。


生涯編集

九州の暴れん坊編集

源頼信以来の河内源氏5代目棟梁・源為義の八男。母は江口(現在の大阪府大阪市東淀川区にあった歓楽街)の遊女だったとされる。


幼少期から暴れ者だったが、その乱暴狼藉に手を焼いた父の為義に13歳の時に勘当され豊後国に追放された。

現地で「鎮西総追捕使」を勝手に名乗り、わずか3年の内に九州を平定し「鎮西八郎」を称した。「筑紫の八郎」と言われることもある。(鎮西も筑紫も九州の別称)。


保元の乱編集

この蛮勇が香椎宮の宮司によって近衛天皇やその父で治天の君だった鳥羽法皇に知られることになり、朝廷から出頭命令を下される。為朝は突っぱねていたが、父・為義が自分の所為で検非違使を解任されたと聞き、九州の猛者たちの28騎のみ引き連れて京へと帰参した。

帰京した時に鳥羽院が崩御し丁度保元の乱が勃発したことから父と共に崇徳上皇側につき、後白河天皇側に付いた異母長兄・源義朝伊勢平氏平清盛と対戦し鬼神の如き活躍をみせる。しかし、戦には破れ逃亡中に病気になり湯治していたところを捕縛されてしまう。父や他の兄弟たちと違い死罪にならず流罪で済まされ伊豆大島に島流しされた。


伊豆大島配流後編集

九州時代同様に島々で暴れまわり、代官の婿となって伊豆七島を支配する。しかし、高倉天皇の時代に追討令を受け工藤茂光・伊東祐親北条時政ら関東武士を中心とした追討軍を差し向けられ、長男・為頼を殺害後に自害したと言う。その後、加藤景廉(子孫に遠山金四郎景元がいる)に首を取られた。

日本史上、最初に切腹で果てた武将とも語られている。

ちなみに孫娘は甥の源頼朝の次男で鎌倉幕府二代将軍源頼家の室となる辻殿で公暁を生むが彼女もまた波乱の生涯を送ることになる。


為朝、琉球伝説編集

その一方で、琉球における伝承では実は伊豆から琉球に逃れ、琉球王朝の始祖となったと言われている。

そのため沖縄には為朝ゆかりの地が各地に点在し、彼が運を天に任せて伊豆から辿り着いた港はその逸話から『運天港』と名付けられている。


琉球の正史『中山世鑑』によると、初代琉球王・舜天がこの為朝だという。


これについて、編纂者の羽地朝秀が清和源氏を名乗っていた当時の琉球支配者・薩摩藩の歓心をかおうと執筆したという説もあるが、実はこの中山世鑑は薩摩の琉球遠征前に記された『琉球神道記』(重要文化財)をかなり参考にして編纂されている。


琉球神道記は、陸奥国(福島県)出身の浄土宗袋中上人が、那覇港における信徒に琉球には独自の伝記が無いことから制作を依頼され、琉球各地を周り歴史や伝承を調べ上げて記したものであり、これには為朝が舜天の父であると記述されている。


更にそれ以前にも、京都建仁寺南禅寺などに住した臨済宗の僧・月舟寿桂が、琉球出身の僧である鶴翁智仙から聞いた琉球の情報など記した『鶴翁字銘井序』などの文献に、為朝が琉球に渡り建国の主となるという記述があるという。


これらのことから薩摩が琉球を支配する以前より、琉球には源為朝を始祖とする伝承が存在していたことになるため、彼が琉球王朝の始祖という説は信憑性が高いとされている。


ちなみにこれらのエピソードを曲亭馬琴が翻案した小説が「椿説弓張月」である。


エピソード編集

主に「保元物語」でいろいろ語られている。

  • 成人男性の平均身長が160センチ前後の時代に身長2mを越えていた。
  • そのせいで清和源氏に伝わる鎧である「源氏八領」の内「八龍」を与えられたのだが身体のサイズが大き過ぎて着る事が出来なかったので、同じ造りの彼のサイズに合わせた白糸縅の鎧を新たに拵えて着用していた。
  • 目尻が切れていて非常に眼差しは鋭かった。
  • 腕も左だけ四寸(12cm)長いと言われ、これが為朝を無双の弓取りとした強さの秘密と云われている。ちなみにこの特徴は英国の精強弓兵「ヨーマンリー」の特徴と同じ。
  • 膂力もずば抜けており大人四人で弓を曲げ残り一人が弦をかける「五人張りの弓」を使用。
  • 清盛の家人・伊藤忠直を射た矢が突き抜け後ろにいた兄の伊藤忠清(景清の実父)の袖に刺さった。
  • 射撃精度も高く兄の義朝を射殺さない様にかつ威嚇の為、兜の星を正確に狙って射落とした。
  • 義朝配下の大庭(豊島)景義・景親兄弟と戦った時、鏑矢で景義の膝を粉砕し景親に救出される。後年、景義は為朝の矢を食らって生き延びたことを自慢のタネにしていた。
  • 天皇方は為朝一人のために攻めあぐね、信西も義朝が提案した火攻めを許可した。
  • 配流時に二度と弓が引けなくなるよう腕の腱を切って(これは本来は「肘の骨を抜いた」という説がある)力が入らないようにしたにもかかわらず、その後三人張りの弓を引けるまでに快復、しかも腕がさらに二寸ほど伸びてより弓を引きやすくなっていたらしい。
  • 伊豆討伐軍に攻められた時、矢の一撃で300人が乗れるほどの軍船を轟沈させた。
  • 後年織田信長徳川家康に為朝が使用した矢の鏃を贈ったが、その見た目の大きさと頑丈さから家康は鏃とは到底信じられなかったのか穂先として槍に仕立てた。ちなみにこの槍は長篠城防衛戦で活躍した奥平信昌の子孫である中津藩主・奥平家の家宝となり現存している。

フィクションにおける源為朝編集

NHK大河ドラマ編集

公式HPの人物紹介で「平安時代のモビルスーツ」と書かれる、以後為朝の代表的キャッチフレーズとなった。また、演じた橋本が大柄なのもあって現場での橋本の通称が「ガンダム」だったとか。ちなみに放つ矢はビームライフル並である。

娘のつつじ(辻殿、演者は北香那)が登場した時に名前だけ登場した。


ゲーム編集

CV:乃村健次

弓兵サーヴァントとして登場。詳細はこちら

宝具(いわゆる必殺技)はもちろん弓矢による射撃。

海外から漂着したオーバーテクノロジーが組み込まれた人型ロボットという強烈な設定と戦略兵器級の強さでプレイヤーの度肝を抜いた。

為朝に遺児がいたものとして、それが北条時政の実権掌握を未然に阻止する歴史ifが作られていた。

関連動画編集

佐賀県上峰町のyoutubeチャンネルでは、2021年に為朝の生涯を描いたショートアニメを公開。

製作はProductionI.G。監督・キャラクターデザインは矢萩利幸。脚本は岸本卓

為朝役は武内駿輔が演じる。テーマ曲はUNICORNが担当。


好評を博し、2022年からは1話5分・全13話からなるストーリーアニメも公開された。


関連タグ編集

日本史 平安時代 武士 源氏

リアルチート

呂布項羽…前者は弓の達者という点からも例えにされやすい。また保元物語における為朝28騎については、項羽に最後まで従っていた兵が28人だったことによるともされる。

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