生涯
幼少期
寿永元年8月12日(1182年9月11日)、源氏の棟梁で鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝の次男として生まれる。幼名は万寿。
母は北条政子、初代執権・北条時政は祖父、2代執権・北条義時は叔父、3代執権・北条泰時や7代執権・北条政村は従弟に当たる。
ちなみに頼家の誕生に際し、頼朝や有力御家人たちによって安産祈願のために整備されたのが、現在も残る鎌倉・鶴岡八幡宮の若宮大路である。
頼家が生まれた頃、既に父・頼朝は鎌倉にて武家政権の基礎固めに当たっていた頃であり、頼家もゆくゆくはその後継者となる人物、即ち生まれながらの「鎌倉殿」として養育された。頼朝が征夷大将軍に任ぜられた翌年、建久4年(1193年)に行われた富士の巻狩りでは、12歳となった頼家が初めて鹿を射とめている。この事は、神によって頼家が頼朝の後継者とみなされたことを人々に認めさせる効果があったとして、頼朝も大いに喜んだと伝わっている(もっとも母・政子の方はそうでもなく、「武将の嫡子なら当たり前のこと」と、頼朝が報告のため遣わした使者を追い返している)。
また建久6年(1195年)には、頼朝の上洛に従って政子と長女の大姫、そして頼家も初めての都入りを果たし、頼朝の後継者としての披露が行われた。翌建久8年(1197年)には16歳で従五位上右近衛権少将に叙任されるなど、武芸の腕前においても官位においても、頼家は次期「鎌倉殿」として申し分ない人物へと成長していった。
家督相続
正治元年(1199年)に父の頼朝が没すると、頼家は18歳で家督を継承し正式に「鎌倉殿」と呼ばれることとなる。ところが頼家が為政者としての実績を上げる間もなく、同年春に北条氏を始めとする有力御家人により、若い将軍を補佐するという名目で「十三人の合議制」が成立。これにより頼家は訴訟の直裁権を失う格好となった。
この背景について、歴史書『吾妻鏡』では妻や乳母の実家である比企氏一族を重用し、また地図の真ん中に線を引いて境界とするなど、御家人の所領争いに際して従来の習慣を無視した裁定を繰り返していたという挿話が見られる。その一方で頼家の政治的な資質とは無関係に、幕府創立に携わってきた坂東武士達が長らく抱いてきた、将軍独裁への鬱積した不満が「十三人の合議制」に繋がったという見解もある。
いずれにせよ、頼家にとってこの措置は到底承服しかねるものであり、「自身に従う若い近習5人以外には自分への目通りを許さず、また彼らへの手向かいも認めない」という命令を出すなど反発を強めたり、御家人の一人である安達景盛の愛妾を配下に命じて強引に奪い寝取る、などといった乱行にも及んだという。もっとも前出の御家人の所領争いに対する裁定も含め、こうした頼家の独裁・乱行の数々については、北条氏による政治的作為が加わっている可能性も指摘されている。
頼家にとって不幸だったのは、自身の後ろ盾とも言える存在が前出の比企氏一族や、父の代より「一の郎党」として頼みとしていた宿老の一人・梶原景時位しかいない事であった。その景時も正治元年の末に、御家人達による糾弾状が出されるに至って幕府内より追放され、さらに翌年初頭には一族もろとも討滅に追いやられるなど、頼家を取り巻く状況は次第に不利なものとなっていった。少なくとも、後述する比企の乱や直後の頼家の失脚においても、頼家に味方しようとする有力御家人、坂東武士達は碌におらず、北条氏はじめとする反頼家派に加担あるいは日和見を決め込む者達ばかりであった。頼家とその支持派が政治的に孤立していたことが窺える。
悲運の末路
母方の実家・北条氏が頼家の実弟・千幡(後の実朝)を擁して頼家と対立する中、建仁3年(1203年)の夏に頼家は体調を崩し、一時は危篤状態にまで陥った。この事態を好機と見た北条氏は、頼家が未だ存命であるにもかかわらず千幡への家督継承を断行。これにより関西諸国の地頭職を千幡が、関東諸国の地頭職・諸国惣守護職を頼家嫡男の一幡が分割して継承する事となった。また朝廷に対しても、頼家が死去したものとして千幡への征夷大将軍任命を要請した形跡も見られる。
これらの措置に反発したのが、比企氏一族の当主で頼家の舅でもある比企能員だったが、北条氏や有力御家人たちは仏事に託けて能員を北条時政の館へ呼び寄せ、これを誅殺すると共に比企氏の一族郎党、そして一幡をも滅ぼすに至ったのである(比企の乱)。
この一件の直後、奇跡的に快方に向かった頼家は事の次第を知って激怒するも、既に有力な味方は殆どおらず、北条氏によって「鎌倉殿」の地位を追われる道しか残されていなかった。やがて伊豆・修善寺にて幽閉の身の上となった頼家は、それから1年と経たぬ間に何者かに殺害され、敢え無い最期を遂げた。下手人について史料は黙して語らないが、北条氏の手勢であるとみてほぼ間違いはない。時に元久元年7月18日(1204年8月14日)、まだ23歳という若さであった。『吾妻鏡』にはただ「その日に頼家様がお亡くなりになられました、という報告があった」という内容の簡素な記述しか見られない。これは『吾妻鏡』が北条氏を持ち上げるスタンスで描かれており、頼家の死の描写がはっきりしていると、北条氏の沽券に関わるためであると推測される。一方で、慈円(九条兼実の弟)による歴史書「愚管抄」には「(北条の兵が)頼家を襲って刺殺したという。その際に頼家が激しく暴れたため首に紐をつけ、急所(原文では「ふぐり」)を切り落とし(たうえで刺し)たらやっと死んだ、と聞く」(現代語訳)というなかなかない凄惨な記述が残されている。
修善寺での暮らしぶりを詳細に伝える史料は殆どないものの、当地の伝承によれば頼家は幽閉生活の間、野山で近隣の子供達と親しんでは亡き妻子を偲ぶ事もあったとされ、またその死を悼んで当地の人々が地蔵(将軍愛童地蔵尊)を建立するなど、前述したような乱行の数々とはまた異なる側面が窺える。そんな頼家には前出の一幡の他にも3人の息子と1人の娘がいたが、後に実朝を討った次男の公暁を始め、彼等もまた父と同様の悲惨な末路を辿る事となる。実朝の暗殺犯として直後に殺された公暁を除いた息子2人も後に反北条派に担ぎ上げられたり、それに加担したとして処刑されている。娘の竹御所は頼朝の唯一の子孫として生き延び、遠縁で四代将軍となった九条頼経の正室となるも、難産(死産)で死亡。これをもって頼朝の血統は完全に断絶した。
NHK大河ドラマでの演者
- 草燃える(1979年)
当時トップアイドルだった郷が演じたことで話題になった。
頼朝の急逝で二代目将軍となったものの、頼家の杜撰な政務と比企一族の重用で御家人の信頼を失い、御家人から慕われる政子が政務に関わらざるを得なくなる。やがて頼家の独裁ぶりに不安を抱いた政子たちにより、裁決権を取り上げられ、遊興にふけるようになる。
頼家が病で危篤に陥ったことで、後継を巡って比企氏と北条氏の対立が起こり、比企氏は滅ぼされてしまう。比企一族という後ろ盾を失った頼家は鎌倉を追われた末に修禅寺に幽閉。のち義時の差し金で殺されそうになり三浦胤義に自らを斬るよう命じたがその前に義時の配下に討たれた。
- 鎌倉殿の13人(2022年)
演:金子大地/鳥越壮真(幼少期)
頼朝と政子の長男。弓の腕は今一つだが、次期鎌倉殿としての気概を見せている青年。父頼朝襲撃の際には、頼朝の安否を確認するよう義時に命じたり、混乱に乗じた鎌倉襲撃を危惧して配下の兵を鎌倉に急行させたりと、見事な采配を見せていた。
一方で女癖は父頼朝に似て悪い。比企一族の娘せつに長男一幡を産ませるが、「わしはせつを妻にするつもりはない」と源氏の一門の娘であるつつじを正妻にしたいと頼朝に訴えていた。比企一族に不信感を抱いていた頼朝も「まさに好都合」と、つつじを妻にしてせつを側女にするように言う。さらに「相手は源氏の血筋、比企に文句は言わせん」「おなご好きは我が嫡男の証だ。頼もしいぞ!」と頼朝に言われて、頼家も元気よく「はい!」と答えていた。
剣の腕はかなり強く修善寺幽閉後、義時の命で暗殺しに来た善児と相討ちとなった。二人とも深手を負い最後はトウに殺された。
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皆本金吾…頼家が左衛門督の唐名の「左金吾」と呼ばれていたことが元ネタ。