ピクシブ百科事典

源頼家

みなもとのよりいえ

鎌倉幕府・第2代征夷大将軍。
目次[非表示]

概要

生没年 寿永元年(1182年)8月12日~元久元年(1204年)7月18日
鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝の長男として生まれる。母は北条政子、初代執権北条時政は祖父にあたり、2代執権・北条義時は叔父にあたる。

父・源頼朝

父・源義朝に従い、平治の乱(平治元年(1160年))に敗れた頼朝は平家に囚われ、本来なら残罪になるところを救われて流罪となり、21年にも及ぶ幽閉生活を送ることとおなった。
その間、平家は栄華を極め、朝廷に並び立つものもいない権勢を極めるが、次第に朝廷の権力者・後白河法皇と対立、ついには、治承4年(1180年)、法皇の第三皇子・以仁王が挙兵、「打倒平氏」の令旨を各地に発するに至った。
以仁王の乱はすぐに鎮圧されたが、以仁王の令旨は平家の権勢に不満を持つ各地の武士を立ち上がらせ、翌治承5年(1181年)に平清盛が死去すると反乱はさらなる広がりを見せた。
寿永2年(1183年)、源義仲(木曾義仲)に追われて平家が都落ちをすると、朝廷は義仲の横暴なふるまいを理由に頼朝に「義仲追討」を命じる。これを受けて頼朝は異母弟の範頼義経兄弟を派遣し、義仲を討ち果たした。
義仲敗死後、朝廷は平家追討を命じ、範頼・義経兄弟は西国に出陣、文治元年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いにおいて平家を滅ぼした。

平家滅亡後、鎌倉において武家政権の仕組みを作っていた頼朝は上洛後に近衛大将に任じられるがすぐに辞任、その後に征夷大将軍に任じられる。その間、頼朝は朝廷に近寄りすぎた義経を詰問後に滅ぼし、範頼に叛意ありとして処断するなど、ただでさえ少ない血脈を滅ぼすこととなり、息子の頼家・実朝にたよりになる味方がいないという結果を作ることとなった。

家督相続

正治元年(1199年)、父の頼朝が没し、頼家が18歳で家督を継承し「鎌倉殿」と呼ばれることとなる。
頼家は父・頼朝の寵臣であった梶原景時や妻の実家である比企氏を重用したことにより、家督相続3ヶ月にして訴訟の採決権を剥奪され、有力御家人13人による合議制がはじまる。事実、頼家の所業には、御家人の所領争いの裁定として地図の真ん中に線を引いたり、御家人の妾を強引に奪い、その御家人を殺そうとして母に制止されるなどの問題があったとされている。

頼家の最期

正治2年(1200年)、頼家を非難していた人物を討とうとした梶原景時が逆に誅殺されたことによって、追い詰められた頼家は比企能員の実家をたよって乱を起こそうとするが、建仁3年(1203年)、頼家が病に倒れたことで露見、これにより北条氏は比企一族を滅ぼし、頼家が死んだことにして家督を弟の実朝に継がせると、頼家を伊豆・修善寺に幽閉、翌元久元年(1204年)7月に殺害された。

関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 源頼朝 源実朝 北条政子

pixivに投稿された作品 pixivで「源頼家」のイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 6

コメント