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美濃尾張

みのおわり

源頼朝による美濃と尾張をかけた駄洒落。身の終わりの隠語・言い換えとしてしばしば使用される。
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概要編集

そのままの意味編集

その名の通り、美濃国(岐阜県南部)と尾張国(愛知県西部)のことで二国を纏めて濃尾と言う(濃尾平野など)

戦国時代には織田信長の支配した二国ということでも名高い(美濃は1567年に斎藤龍興から奪取)。


「身の終わり」編集

平治の乱後、伊豆国に配流されていた源頼朝平家討伐の兵を挙げた際に頼朝側についた長田忠致と子・景致に対する、戦勝後の謝礼として「美濃尾張」を与えるといい、奮闘した長田父子を平家滅亡後に捕らえて、「身の終わり」を与えたというダジャレ。現在でも「美濃尾張」を「身の終わり」という末恐ろしい洒落として、しばしばネタで用いられる。


長田忠致は道長四天王平致頼の五世孫。頼朝の父である源義朝の一の郎党である鎌田正清の舅である。しかし、平治の乱平清盛に敗北して関東へ逃れる途上で身を寄せにきた義朝と正清を、平家からの恩賞目当てに暗殺した(野間の変)。

のち清盛から恩賞として忠致は壱岐守、景致は兵衛尉に任官されたものの忠致は義朝の官位だった左馬頭への任官や義朝が任じられていた播磨国の国司を望んでいたため不満を持った。この時「せめて尾張か美濃の国司にはなって然るべきなのに…」と言ったとのように『平治物語』で書かれその浅ましさを批判されている。

長田父子は先述の通り恩賞目当てで平家討伐戦で功を挙げたものの、1190年に処刑されたという経緯から現在でも末恐ろしい洒落として、しばしばネタで用いられる。


異説としてまた一方で長田氏は治承・寿永の内乱時には平家からも源氏からも距離を置き平家滅亡後も頼朝に従わなかった。頼朝は藤原泰衡・国衡兄弟らを滅ぼした(奥州合戦)翌年の1190年に頼朝は亡父の仇を討つべく配下の御家人に忠致父子の討伐を命じた。忠致は頼朝に恭順の意向を示したが、かつて忠致によって亡父と正清を騙し討ちにされた怨みを忘れない頼朝はかえって激怒して、これを許さずに忠致は子の景致と孫の清致とともに処刑されて、晒し首となったという。


南北朝時代に成立した『保暦間記』によると1190年10月に頼朝は上洛する途上、長田父子を捕え美濃で斬首したという。一方、鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』では1180年に駿河国鉢田の戦いで武田信義安田義定ら甲斐源氏軍に敗れ主将の橘遠茂や二人の息子と共に処刑され晒し首にされた長田入道という人物が登場する。また吾妻鏡には長田父子が源範頼源義経の麾下として平家討伐戦に従軍したり手柄を立てた記録がないため長田入道父子が忠致と景致ではないかと推測されている。


ただいずれにせよ長田父子が「身の終わり」を与えられたことだけは確実だが、処刑された年代や場所などははっきりしていない。ちなみに長田氏が滅ぼされたのは忠致の系統の嫡流のみであり忠致の庶兄である親致の系統は存続を許された。戦国時代には徳川家康に仕え小牧・長久手の戦い池田恒興を討った永井直勝が登場する。直勝は最初長田姓だったが忠致の不忠を嫌った家康から永井に改姓させられ永井氏となった。


関連タグ編集

ギャグ 処刑 

織田信孝織田信長の三男。賤ヶ岳の戦い後、野間で切腹させられたが自身を義朝、羽柴秀吉を長田父子に例えた辞世を残したとされる。

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