生涯
永禄元年(1558年)に織田信長の三男(次男説もある)として生まれる。
兄たちと同じく側室腹で、生母は坂氏の方。幼名は三七。仮名は三七郎。極官は従五位下侍従。
早くから織田家当主の後継者と目されていた長兄の織田信忠や、北畠具房(北畠具教の長男)の養嗣子となって北畠家当主となり北畠一族の木造具政・同長正・滝川雄利らの補佐もあり地盤を固めていた次兄・織田信雄(当時は北畠具豊)と異なり信孝は伊勢の豪族である神戸氏の養子となったものの、神戸氏そのものの勢力圏や、養父である神戸具盛や傘下の関盛信との軋轢(後に具盛は幽閉される)もあり、地盤がかなり不安定であった。
信孝は守役であった幸田彦右衛門や岡本良勝の手を借りつつ神戸家をとりまとめ、1574年には長島一向一揆の平定で初陣を果たし、兄・信雄と協力して戦った。
その後、越前一向一揆平定や荒木村重討伐などにも従軍。兄・信忠の元で戦った1578年の別所長治討伐戦では神吉城攻略の際に足軽と功を競って奮戦し信忠から叱責を受けている。
同時期頃、病を篤くした村井春長軒(貞勝)の代役として京の内政を担当した。
1582年には木曽義昌の離反劇を援助し武田勝頼の滅亡に一役買った。
同年、自身の強い希望によって四国征伐の総大将に任命され丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄・織田信張・鈴木孫一らを加えて四国征伐の準備に取り掛かっていた。
(もともと信長は大和に所領を与えたがっていたようだが、大和を領した松永久秀の謀叛や原田直政の戦死により取りやめていて、四国を信孝に与えようとしていたとも言われる)
1582年6月2日、明智光秀の謀叛により父・信長と長兄・信忠が討たれる。信孝はすぐさま光秀討伐を開始しようとするも何分寄せ集めの軍なので過半が国元に変えると言う事態に陥る。長秀の意見もあって光秀の娘婿でありかつて信長に謀反して討たれた織田信勝の遺児である信澄を危険視し大坂で殺害する。
近隣勢力と連絡を取り、やがて摂津の池田恒興・中川清秀・高山右近、そして中国地方から帰ってきた羽柴秀吉と連携しついに山崎で光秀を破る。
光秀はその後死亡し、織田家はひとまずの安定を見た。
朝廷にも秀吉とともに参内し、太刀を拝領している。
一方で、関白近衛前久が所有する屋敷から、明智軍が乱入して信忠を追い詰めた件について、前久が光秀に加担したと嫌疑を持ち、処罰しようとした。同じ公家の勧修寺晴豊によると、結局無実だったと言われている。このエピソードが、本能寺の変の朝廷黒幕説の遠因になったとか…
清洲会議では柴田勝家・羽柴秀吉・池田恒興・丹羽長秀の合議により織田家当主を信忠の遺児・三法師(後の織田秀信)とされ肩透かしを食らうも、自身が三法師を一時的に預かることになり信孝はまさに全盛期であった。
この頃から山城の寺社から求められた寺領安堵を行ったり、徳川家康の甲信領有問題などに介入、認可するなどして積極的に織田家を再構築する。三法師は当時3歳であり、合議とはいえ誰の目から見ても実権は信孝の優位であった。
しかしそんな信孝に対して信雄や秀吉らが反感を抱き織田家内の派閥対立はもはや修復不可能なところにまで来ていた。
信孝自身も信雄と濃尾間の国境で揉め始めていた。
当時の国は国境で決めていたのだが、信長治世に入ると河割り、つまり河を境にすることで、尾張の一部が美濃として認知されていたようである。
これは美濃・尾張どちらも父・信長が管轄していたためであるが、管轄者が2人に分かれてしまったためこのような問題が発生したと思われる。
ちなみに河とは「木曽川」のことをさす。最終的に信雄の言い分である国境分割が認められた。
やがて羽柴秀吉が信長四男で自身の養子でもある羽柴秀勝を喪主とし、織田家家臣団や織田一族を呼んで信長葬儀を開催。池田恒興らも支持して葬儀に参加する。この場に信孝や勝家らが呼ばれなかったこともあって、一気に対立が表面化する。
その年の11月には半ば蚊帳の外と化していた信雄が秀吉・長秀・恒興と組み信孝・勝家に反発。
勝家と長秀はそれ以前の段階では比較的穏健派で、2人で当初の清洲会議の約定を再確認して融和しようとする動きもあったのだが、この段階ではほぼ完全に派閥が分かれるに至る。やがて三法師を当初の約束通り安土城に入れなかったことを信孝は咎められ、軍を率いて無理やり三法師を奪取されてしまった。
翌年の4月、信孝は賤ヶ岳の戦いを契機に再度岐阜城で挙兵。ところが足元の美濃国内では森長可・氏家直通(卜全の長男)・稲葉典通(及び父・貞通や祖父・一鉄)らが信雄や秀吉に呼応しまとまらぬ有り様であべこべに秀吉に攻められる。さらに勝家が敗北して北ノ庄城で自害し進退極まった信孝は秀吉・信雄に降伏。最終的には信雄の命令で自害させられ、信孝の生母も処刑された。享年26。
その最期はかなり苛烈なもので、切腹の際、秀吉への強い恨みから腹をかき割って腸を取り出し、それを床の間にあった掛け軸に投げつけて果てたといわれている。信孝切腹の際の短刀と血痕のついた掛け軸とされるものは今でも残っているが、非公開だとか。
信孝を信長の後継者と目する都の公家や寺社からの支持を受けて活動したが、それが実兄の織田信雄や秀吉との対立に繋がり結果的に織田家内で孤立してしまったのが最終的に致命傷となった。
辞世の句
「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
という辞世で知られている。内海を討つ身とかけ、平治の乱後の「野間の変」で家臣に裏切られ非業の死を遂げた源義朝とかけている。羽柴筑前を義朝を討った長田忠致・景致父子とかけ、彼らの最期も非業の死であったことから、「おまえも同じような目に遭わせてやる」という呪詛に満ちた辞世だったと言われている。
その一方でこの辞世は創作説がかなり強いともされる。そもそも辞世とは、自分の一生を振り返り、死ぬ時の気持ちを感慨深く掘り下げて作る物であり、実際に柴田勝家や大内義隆など戦国武将でも風流な辞世を残している。
「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
柴田勝家
「討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観」
大内義隆
特に大内義隆は、家臣達の謀叛によって自害しており、紛れもなく非業の死であったのだが、少なくとも辞世ではそれを恨む様子がなく、世の無常を儚み悟ったかのような句である。
さて件の織田信孝である。
信孝は従五位下侍従という官職を貰っており、公家としても殿上人の扱いであった。
また山崎の戦いでは勝利後に天皇から太刀を拝領したり、病になった村井春長軒の代わりに京の政治を代役したこともあった。
そのような風流を解した人間が、前述のような個人的な恨みを爆発させた句を詠むだろうか?という疑惑は、長年根強いものとなっているおり、二条河原や手取川のように、落首(庶民<匿名であるため実際の身分は不詳とも>が当時の世相を振り返り、立札や日記などにそれを風刺する目的で、狂歌や文章などを公開すること)の類ではないかとも言われている。
その一方で先述の苛烈過ぎる最期を思えばありえる話でもある。
ちなみに信孝を切腹に追い込んだのは、羽柴筑前こと秀吉ではなく信雄である(賤ヶ岳の戦い)。
なお、辞世の句と直接関係はないが、長田忠致は平家滅亡後に義朝の三男・源頼朝から「美濃尾張(身の終わり)」を与えられ殺害されるという逸話が「平治物語」などにある。
なお、信孝の墓所は野間大坊にあるが、そこには長田父子に殺害された義朝やその腹心で忠致の娘婿でもある鎌田政家やその妻の墓もある。
創作物での織田信孝
ドラマ・漫画
演:役所広司
役所氏はこの三年後の「徳川家康」で信孝の父・信長を演じ大ブレークするが、歴代大河ドラマで信長と信孝を演じた人物は役所氏のみである。
正直かなり悪い。大半の戦国時代の人物が再評価される描写がされる中で数少ない”従来の説よりも扱いが悪い人物”。
兄信忠を超え自分が織田信長の後継者になろうと目論む野心家だが、神経質で目先の手柄に囚われるあまり戦略が見えておらずそのことを信長に窘められるというやる気だけが空回りして視野や力量が伴っていない武将としての資質に難がある性格をしている。
当然この体たらくでは人はついてこず、本能寺の変にて父と兄を喪った際には信長の威光で集まっていた兵士が大量に逃散し光秀に対抗することもままならず、合流した秀吉の立ち振る舞いを信孝と比べた副官の丹羽長秀にも「信孝など秀吉の足下に及ばない」と底の浅さを見透かされ山崎の戦の主導権を実質的に秀吉に取られる。
その後光秀を破り日に日に勢力を増す秀吉を危惧し柴田勝家・滝川一益を頼り対抗しようとするも秀吉側の各個撃破作戦に翻弄され信長の子として“簒奪者”秀吉と戦かおうとしても碌に兵力が集まらず、信長とは違い自分が無力だと思い知らされ絶望する。
最後には秀吉に恨み節を遺しながら切腹させられた。
…と、ここまでなら創作でよくある”力量及ばず賤ケ岳の戦いで柴田勝家を討伐した秀吉についでに粛清された人物扱い”だったのだが、彼最大の不幸は死後に訪れる。
なんと従来の創作ではその愚鈍さで織田を没落させた戦犯扱いされていた織田信雄が小牧長久手の戦いを起こしたのはどちらが天下を牛耳るのにふさわしい存在を判定するためだったと自らの力量の限界をわきまえ秀吉との講和も状況を熟慮したうえで秀吉のほうがふさわしいと認めたという理由付けがされた。その際秀吉を「うつけは演技だったか、父に似てきた」とうならせ「これからは父の業を代わって背負うことになる、がんばれ」と彼を激励する潔さを見せた。
そのため、”自分の力量を弁え引き際を心得つつ秀吉と家康を試す大役を果たした信雄”と”血筋に囚われ自分の力量に不釣り合いな野望を抱いて破滅した信孝”との対比が浮き彫りとなってしまった。
ゲーム
- 戦国無双シリーズ
CV 岡本寛志(2emp)
2ではempiresのみの登場であったが、勇将のグラフィックに岡本氏による豪将の音声が当てられているという扱いであった。(他でこのようなことになった武将は山中鹿之介、北条氏康など多々いる)
- 信長の野望シリーズ
戦国群雄伝から登場。群雄伝だけはそれなりの評価だった兄・信雄と違い一貫して評価は低い。政も武も並か並の下だったりするが智が壊滅しており、一例として烈風伝では智謀12だがこれは佐々木小次郎・柿崎景家・名古屋山三郎より少しマシという程度である。