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織田秀勝

おだひでかつ

織田秀勝とは、日本の戦国時代の武将。織田信長の四男。羽柴秀吉の養子となったため、羽柴於次秀勝とも言う。秀吉の甥で養子でもあった羽柴小吉秀勝(豊臣秀勝)と区別するため、「織田秀勝」の表記でこの場は統一する。

概要

織田信長の四男(五男とも※)として1568年に誕生する。1579年頃に子供のいなかった羽柴秀吉の養子となる。一説には安土城に来訪したねねが、秀吉の浮気癖を愚痴り、それを信長が窘めた時に話が纏まったと言われている。

(件の話は、信長の直筆書状が残っているものの、年次は不定であり安土城が築城された1577年以降ということしか明らかな部分はない。ただし子供のいない功臣や領主に、自らの庶子や次男以下を養子に送って一門化すると言うことは、武田信玄(諏訪勝頼仁科盛信など)や北条氏康(大石氏照藤田氏邦上杉景虎など)らも積極的に行っており、当時としては普通の事であった。)


※このことについては秋山信友の項目も参照


羽柴秀吉の養子となった秀勝は、当初秀吉領であった長浜播磨で留守居を行い、内政にも関与している。その後備前児島城、備中高松城の攻撃に、秀吉の本陣部隊の一員として参加。羽柴秀長黒田孝高蜂須賀正勝宇喜多忠家らとともに中国の毛利輝元の討伐軍として毛利氏と対峙していた。

この時秀吉は、信長の誓紙を用いて高松城主・清水宗治と副将の中島元行両将に寝返りの打診を行い、それを断られたという記述が『中国兵乱記』にあるのだが、件の際に用いた信長の誓紙には、『今度、西国成敗のため同姓次丸、羽柴筑前守を差し下し候』の記載があり、中国地方ひいては西国(九州)征伐の総大将格は秀勝と目されていたようである。(もちろん、秀吉も中心人物であるのにはかわりはない。)


ともあれ、信長からその期待を受けていた秀勝であったが、その信長と長兄の織田信忠本能寺の変で自害すると、養父の秀吉、三兄の織田信孝とともに明智光秀山崎の戦いで撃破し実父である信長の仇討ちに成功する。


その後の清洲会議では次兄の織田信雄、信孝同様に信長実子の有力格として見られ、領地分配で一国を宛がわれた。信雄が尾張、信孝が美濃と信忠の遺領を引き継いだのに対して、秀勝は明智光秀の旧領である丹波を与えられている。この頃から丹波亀山城に在城する。同年には大徳寺で行われた信長、信忠の葬儀喪主を務める。


同時期より、信雄・秀吉と信孝・柴田勝家が対立すると、秀勝も秀吉に従い、1583年の賤ヶ岳の戦いでは、仙石秀久とともに布陣し、信雄・秀吉連合軍の勝利に貢献する。


やがて1584年には信忠の嫡男・織田秀信を支持して大きな権力を握っていた秀吉と、信雄・徳川家康が対立し小牧・長久手の戦いが発生する。秀勝は岐阜城に兵を率いて布陣したが、直接戦闘地へ赴かなかった要因については諸説あるが、持病が篤くなったためという見方が強く、事実会戦中に秀勝は兵を撤退させている。


その後1585年12月頃に死去。同年7月に豊臣姓を賜った秀吉は関白職に任命されている。秀勝の死因については諸説あり、一説には織田家の勢力が邪魔になった秀吉が廃したとも言われているが、秀信や信雄、織田信包等多くの織田家一門と協調方針を取り、大名として取り立てた秀吉の方針や、一度養子に貰いながら、他家の養子へと送った豊臣秀康豊臣秀俊の処遇などから、非現実的であるという意見も強く、謀殺説を裏付ける史料もまたない。当時の史料では秀勝は胸の病気であったとも言われている。


秀勝の死後、秀吉は甥の豊臣秀次の弟の小吉に羽柴小吉秀勝を名乗らせ、丹波少将の官位も継がせている。秀吉の一代記である「天正記」では織田秀勝の死去の記述がない。天正記の成立年代は1580年代の末頃とされ、この時点では実子である鶴松もお拾(秀頼)もまだ誕生していないため、石松丸以降実子ができず、半ば養子頼みだった秀吉が大いに嘆き悲しんだことを、史料で触れなかった可能性も強い。また天正記は現存では12巻のうち8巻しか残存しておらず、記述が散逸した可能性もある。いずれにせよ、織田信長豊臣秀吉という2人の傑物を父に持つ子供にしては、若年の死とはいえ、謎に包まれたと言われるほど、ひっそりとした死であったと言える。


関連項目

織田信長 織田信忠織田信雄 織田信孝

豊臣秀吉 豊臣秀勝

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