秋山信友
あきやまのぶとも
甲斐の戦国大名・武田氏の家臣の一人。武田信玄・勝頼の2代に亘って仕え、「武田二十四将」の一人としても数えられる。官位・通称は善右衛門尉、伯耆守。
戦場では猛烈に敵軍に突っ込み蹴散らしていく、「武田の猛牛」の異名を取った猛将であったとされるが、一方でその本領は調略や流言を用いて敵軍の弱い所を突く事を得意とする軍略家であった。
本記事では便宜上、一般に広く知られている「信友」の名で統一するが、他の武田家臣の多くがそうであったように、名前については近年になってからの史料調査により、確実とされる諱が明らかにされており、信友の場合は「虎繁」と名乗っていた事が確認されている。この他、軍記物では信友を指しているとみられる「春近(晴近)」「信近」の別名も散見される。
伊那郡代として
信友の生まれた秋山氏は、加賀美遠光(武田信義の叔父)の長男・秋山光朝を祖とする甲斐武田氏(甲斐源氏)の分流の一つである。
光朝は従兄弟の信義と共に、源頼朝と協調して平家討伐にも従軍したものの、甲斐源氏の勢力伸長を恐れた頼朝に睨まれた事や、姻戚関係から平家とも親しい立場にあった事もあり、文治元年(1185年)に処刑の憂き目に遭った。光朝の死後、一時没落していた秋山氏は承久の乱での戦功により名誉を回復、板垣・甘利など他の武田氏の分家と共に、300年余りに亘って武田宗家の家臣として仕えた。
時代は下り、16世紀初頭には武田信虎と油川信恵との間で内訌が生じ、後者の側に属した叔父・岩手縄美らが信虎により打ち破られているが、その際彼らに加担していた秋山新左衛門という人物が信虎に帰服しており、この新左衛門が信友の父であると見られている。
信友が元服したのは、信虎が嫡子の晴信に追放された後、即ち天文10年(1541年)以降の事とされているが、他方で飯富虎昌や原虎胤のように、実名の「虎繁」は信虎からの偏諱によるものと考えられており、近年では元服は信虎追放より前の事ではないかという見解も示されている。
ともあれ、その信友の名が初めて記録に出てくるのは、さらに数年後の天文18年(1549年)に武田氏に仕える武士の1人に対して与えられた、軍役免除の朱印状奏者としてである。この時の信友は二十歳過ぎと若年ながらも、前年に板垣信方・甘利虎泰ら先代からの重臣を失った晴信から、幹部候補生として期待されていたと考えられ、天文22年(1553年)には武田氏が村上義清の居城であった葛尾城を陥落させた際、その戦後処理を任されるなど晴信からの期待に応えた。
信友はこの戦の後、室角虎光(諸角虎定とも)と共に大嶋城に在番し、伊那の守備を任される事となる。またこれと前後して、東美濃から信濃にかけて勢力を有していた遠山氏が武田氏に臣従、この事で美濃の斎藤道三と緊張関係を生じさせたため、信友は晴信からの命により斎藤氏の動向を逐次伝えた他、美濃や遠江・三河方面における軍事・外交にも携わるなど、武田氏の西の要を担った。
徳川・織田との抗争
永禄年間に入ると、尾張の織田信長が美濃へと勢力を拡大、武田とも領国の境界を接する事となる。織田氏は、以前より武田と同盟を結んでいた今川氏の敵であったが、一方でこの頃既に信玄は駿河への進出を企図し始めていた上、前出の遠山氏ら東美濃の国人の動きを抑える必要もあり、信玄は義信事件などを経て外交方針を転換、織田氏との間で同盟関係の構築が図られる事となった。
信友は永禄8年(1565年)に信玄の命を受け織田家との取次役を担当し、3年後の永禄11年(1568年)に岐阜に赴いた際には信長より太刀を授かったという。またこの年の末には、信長の盟友である三河の徳川家康と同盟の上で、武田氏が駿河へと侵攻を開始。ところがその際の信友の行動が、武田・徳川間の関係に致命的な打撃を与える事となる。というのも駿河侵攻に先立ち、武田と徳川との間では今川領国のうち駿河を武田が、遠江を徳川がそれぞれ折半する事で同意があったと見られているが、信友は侵攻に際し伊那衆を率いて遠江へと攻め込むという、同意を反故にするかのような行動に出たのである。
信玄としても徳川との関係悪化は望むところではなく、直ちに信友の軍勢を撤退させる事を約束したものの、家康の武田への心証悪化は最早不可避であり、武田・徳川間の同盟もこれをもって手切れとなった。
これ以降、両者の間では度々小競り合いが発生するようになるが、信友も元亀元年(1570年)の暮れに2千の兵で奥三河に侵攻、その途上の東美濃で遠山衆や山家三方衆5千と衝突する(上村合戦)。この時信友は事前に山家三方衆に対して中立を保つように調略を仕掛け、突出した遠山衆を深田に誘い込み尽く討ち取るなど勝ちを収めたが、織田方の明知光廉(三宅長閑斎)の軍勢の介入などもあり、三河侵攻を断念し伊那へと引き上げている。
そして元亀3年(1572年)に、信玄が織田との同盟を破棄して「西上作戦」を開始すると、信友は山県昌景の別働隊と共に再度奥三河へと侵攻、信玄率いる本隊への合流までの間に奥平氏や菅沼氏の守る諸城を陥落させている。敵である家康から、後の世に二つ名として定着することとなる「武田の猛牛」と称されたのもこの時の事である。
また同時期には、予てより信友が調略を仕掛けていた東美濃の遠山氏が、武田氏への帰属を鮮明に打ち出しており、翌元亀4年(1573年)にはその遠山氏が守っていた美濃の岩村城へと入城、大嶋城代と岩村城代とを兼任する格好となった。この岩村城入りに際し、信友は城主であったおつやの方(信長の叔母)と婚姻関係を結んでおり、元は敵味方の間柄ながらも仲睦まじい夫婦だったと伝わっているが、この婚姻については近年誤りではないかとの指摘も呈されている。また岩村城には前城主の養子として、信長の五男(※)である御坊丸(織田信房)もおつやの方の後見の元在城していたが、信友はこれを保護して甲府へと送り届けている。
(※ 五男とされる場合が多いものの、年齢順で言えば四男の於次丸(羽柴秀勝)の方が年下であるとの見方もある。ただし秀勝とは異なり信房の生年については今もって確定を見ていない事、それに秀勝が羽柴秀吉の養子になる前の事績がはっきりしていない点にも留意されたい。)
岩村城落城とその後
西上作戦は、その後信玄の病没に伴って頓挫し、後を継いだ武田勝頼に信友も引き続き仕えた。年号が天正と改まったこの年の暮れには、前々年に死去した金丸筑前守(虎義)の三男・昌詮(土屋昌続の実弟)を婿養子に迎えている。
勝頼の治世においても、引き続き武田氏は東美濃への進出を図り、織田氏をなおも圧迫し続けたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、合戦の直後には奥三河の諸城も相次いで陥落するなど、当地や東美濃における情勢も武田氏不利へと転じていく事となる。
信長は間髪を入れず、嫡男の織田信忠やその重臣である河尻秀隆らの率いる大軍1万を東美濃へと派遣し、岩村城を奪還すべくこれを包囲。信友とおつやの方は城への補給路を絶たれながらも、織田方の陣に夜襲を仕掛けるなど半年近くに亘って城を守るも、勝頼からの援軍が間に合わぬうちに守備兵の1/3ほどを失うなど、進退窮まった信友は11月に信長に降伏を申し出、ここに岩村城も落城の時を迎えた。
しかし、岩村城が武田方の手に渡った経緯が経緯なだけに、信長としても信友やおつやの方を端から赦すつもりはなかったようで、騙し討ちも同然の形で囚われの身となった信友夫妻は岐阜へと連行された後、長良川の河原において逆さ磔の極刑に処された。時に天正3年11月26日(1575年12月28日)、享年49であった。また自らの命を引き換えに城兵の助命を乞うた2人の願いも聞き届けられる事はなく、城兵らも焼き討ちもしくは自刃に追い込まれ全滅した。
信友の死後、秋山氏の家督は前出の昌詮が継いだものの、4年後の天正7年(1579年)に29歳の若さで病没。その実弟である源三郎が跡継ぎとして迎えられるも、天正10年(1582年)の甲州征伐に際して主君・武田勝頼と運命を共にした。
信友の子孫はその後、秋山氏の家伝文書を伝えた秋山平太夫家が水野氏に仕え命脈を保った一方、その他の子孫らはおつやの方所生の子とされる六太夫(※)を含め、討死もしくは帰農したとされる。
(※ 岩村城落城に先んじて落ち延びたとされ、後に村上水軍に仕えるも、慶長5年(1600年)9月に伊予松山での加藤嘉明勢との戦い(三津浜夜襲)で討死にしたという)