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板垣信方

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いたがきのぶかた

甲信地方の戦国武将。武田信虎・信玄の二代に亘り、家臣団の重鎮として駿河・信濃での戦いなどで高い戦功を上げるが、上田原の戦いにて壮絶な討死を遂げた。(1489年/1492年-1548年)

人物

甲斐武田氏の家臣。武田信虎信玄の二代に亘り活躍した。

板垣氏は治承・寿永の乱で名を挙げた甲斐源氏の武将・板垣兼信(武田氏の初代・武田信義の三男。ちなみに坂額御前の夫・浅利義遠(与一)は叔父に当たる。)を祖とする。兼信は父や次兄・一条忠頼(甲斐一条氏の祖)らとともに源平合戦で功があったが、当初協力関係にあった源頼朝がその勢力を確立するにつれて父兄ともども疎まれた。そして忠頼は誅殺され、兼信は全ての地頭職を取り上げられた末に隠岐へ流された。

その後の板垣氏は武田本家とは親戚にして主従という関係になり、信方も若かりし頃から武田家臣団の重鎮として、数々の戦にて優れた戦功を上げてきた。また合戦だけでなく外交面でも駿河の今川氏との同盟や、信濃攻略においてその手腕を発揮している。

主君・武田信虎の追放の折にはこれを主導し、その息子である晴信(信玄)の当主擁立に貢献。晴信の治世の下では甘利虎泰と共に家臣団の筆頭格として重きをなし、後年武田二十四将の一人にも数えられた。やがて北信濃の覇権をかけた村上義清との戦いにおいて、上田原にて壮絶な討死を遂げる事となる。

晴信が生まれたばかりの頃からその傅役を任されており、詩文に傾倒していた若かりし頃の晴信を命懸けで諌めた事もあると伝えられるなど、晴信にとっては第二の父親とも言うべき存在でもあった。とはいえ、晩年に至って信方には増長気味な振る舞いも目立ったとされ、逆に晴信がこれを諌めるべく和歌を送ったという逸話も残されている。

もっともこうした欠点、さらに言えば功績も含め、その多くは江戸期以降に成立した書物に拠るところが多く、信方の実像については今なお研究の途上にある。

生涯

前半生

延徳元年(1489年)もしくは明応元年(1492年)に、甲斐一条荘(現・山梨県甲府市)を本拠とする板垣氏の第14代目当主・板垣信泰の子として生を受ける。兄弟に室住虎登室住虎光(諸角虎定)養子)がいる。

源平期からの名門で、甲信越有数の大名として名を馳せていた武田氏も、信方の生まれた頃は同族同士の抗争や、それに乗じての周辺諸勢力の介入などで領内に混乱を来しており、信方は若い頃から主君・武田信虎の下、甲斐国内の統一に奔走する事となる。

永正18年(1521年)、福島正成(北条綱成の父)らを始めとする今川勢が武田領内に侵攻、信方も他の諸将と共にこれを迎え撃つ事となる。この今川勢との戦いは上条河原での合戦と、その晩に行われた夜襲により武田軍の大勝の内に終わったが、この時の軍功により信方は、同年に誕生した信虎の嫡子・勝千代(後の晴信)の傅役を任されたとされる。

戦後、信方は今川氏との和睦交渉にも携わり、その成立に尽力している。その過程で武田氏に登用されたのが、軍師として名高い山本勘助であったとされ、信方が勘助を用いて今川氏の情勢を探らせたという説も存在する。

ところが天文4年(1535年)、今川家の当主・今川氏輝は武田氏との和睦を破り、相模の北条氏綱との連携で甲斐への攻撃を開始する。武田軍もこれを撃退こそ出来たものの、激戦の場となった郡内は戦火に見舞われ、さらに信虎の弟である勝沼信友小山田弾正らといった家臣も戦死するなど、少なからぬ被害が生じる結果となった。

この事で信虎の勘気を蒙った信方は、板垣勢のみでの駿河攻めを厳命され、翌年春に氏輝が病死するまでの間、信方勢は敵地駿河にて苦闘を強いられることとなった。和睦破綻の責を取らされた、というにはあまりに苛烈なこの仕打ちには、同時期より目立つようになってきたという信虎の乱行や、勝千代と扇谷上杉朝興の娘との政略結婚に信方が強く反対した事などが、その背景にあるとも考えられている。

晴信治世下にて

やがて勝千代は元服し晴信と名を改めるが、信虎は彼を疎んじ次男の信繁に家督を譲ろうと考えるようになる。一方この頃になると、度重なる対外勢力との戦いで国内も疲弊の極みを迎え、信虎の施策に対する反感は領民のみならず家臣団の間にも次第に広まりつつあった。

ここに至り、晴信は父・信虎の国外追放を決意。信方や甘利虎泰飯富虎昌ら重臣達もこれに同調し、天文10年(1541年)6月に信虎を駿河へと追いやり、晴信の家督相続に貢献している。

信虎追放に尽力した信方は、これ以降ますます晴信から全幅の信頼を置かれるようになり、虎泰と共に武田家最高職の「両職」に任じられるなど、家臣団の筆頭として重きをなすようになる。

程なくして、武田氏は信濃制圧に向けて軍事行動を開始し、それまで同盟関係にあった諏訪氏との抗争に突入している。当初武田氏は高遠頼継と連携して諏訪頼重を降しているが、その後諏訪家の惣領を巡って武田と高遠との間でも対立が生じるや、信方は晴信の命で出陣し高遠軍を打ち破っている。

この功績により信方は諏訪郡代として同地の統治を任され、上原城を本拠に諏訪衆を束ね、信濃制圧に邁進していく。また同時期には駒井高白斎らと共に、予てより駿河東部を巡って対立関係にあった今川義元北条氏康の調停にも携わっており、さらに本願寺との外交窓口も担うなど、外交面においても精力的な働きを見せている。

しかしこの頃から信方には、晴信の許可を得ぬまま単独で恩賞や勝鬨式、首実検を行うなどといった振る舞いが目立つようになったとされ、晴信もこうした増長気味な部分には不満を禁じ得なかったという。とはいえ当の晴信もまた、この時期連戦連勝から来る奢りから信方に窘められた事があったとも言われており、この両者の慢心は程なくして最悪な形でその身の上に跳ね返って来る事となる。

上田原の戦い

天文16年(1547年)、武田氏は信濃佐久郡にて頑強な抵抗を続ける笠原清繁をその居城・志賀城に追い詰めていたが、この時志賀城への援軍として関東管領・上杉憲政が大軍を派遣する。これに対し晴信は信方と虎泰に関東管領軍の迎撃に当たらせ、武田軍は小田井原にて一方的な勝利を収めると共に、そこで討ち取った3000もの首級を志賀城の目前に並べ、城兵への威嚇を行った。これにより士気の低下した志賀城は程なくして陥落、主将の清繁や山内上杉氏の将・高田憲頼らは自刃に追い込まれた。

志賀城の陥落により、武田氏は北信濃の雄・村上義清との直接対決に踏み切る事となる。翌天文17年(1548年)2月、晴信は5000の軍勢をもって北信濃へ出兵、信方も諏訪衆を率いてこれに合流した。対する村上軍は本拠の葛尾城、戸石城を中心に陣を敷き、両者は産川を挟んでしばし睨み合いを続けた。

そして天文17年2月14日(1548年3月23日)、遂に両軍は上田原にて合戦に及んだ。『甲陽軍鑑』によれば、この時信方は先陣として村上軍に攻撃を仕掛け、これを打ち破って敵陣の深くにまで攻め入ったが、それまでの連戦連勝による油断からか、もしくは前述したような増長もあってか、信方は敵前であるにもかかわらず勝鬨を挙げ、首実検を始めたという。

この信方の油断を義清は見逃さず、村上軍も態勢を立て直し反撃に転じた。不意を突かれた板垣勢は恐慌を来し、信方も馬に乗ろうとしたところを槍で突かれ討ち取られた。享年56もしくは59。信方の討死により板垣勢は崩壊、さらに甘利虎泰や初鹿野伝右衛門らも戦死するなど、武田軍はこの合戦で甚大な痛手を蒙る結果となった。

信方の死後、板垣氏の家督は嫡男・信憲が継承し引き続き両職として遇されたが、父とは異なり不行跡が目立つ事から晴信の不興を買い、やがて追放もしくは殺害の憂き目に遭ったとされる。板垣氏もこれにより一時断絶の危機に瀕するが、信方の女婿・於曾左京亮(板垣信安)が板垣氏の名跡を継ぐ事を許され、以降はこちらが嫡流として江戸期以降もその命脈を保っていった。

一方信憲の遺子は、その後丹波・京都での籠居を経て山内一豊の家臣となり、乾正信と名乗るようになった。この正信に端を発する乾氏は江戸時代を通して土佐藩士として存続、やがて幕末期に至り明治維新の元勲にして、自由民権運動の象徴ともなった板垣退助を輩出する事となるのである。

関連タグ

戦国時代 武田氏

大河ドラマ

板垣退助乾正信の子孫。土佐藩上士。戊辰戦争時、甲府入城直前に「乾」から改姓。

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