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村上義清

むらかみよしきよ

信濃国の豪族にして、武田信玄を二度破ったの北信の雄。
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生涯

村上義清は元亀元年(1501)に村上顕国の子として葛尾城で誕生します。義清が家督を相続した頃は信濃の東部から北部を支配下において、村上氏の最盛期となっていました。

村上氏は隣国甲斐の国の武田信虎武田信玄の父)と佐久郡において激しい抗争を続けていましたが、佐久郡は最終的に武田氏の支配下となります。

天文10年(1541) 武田信虎は今まで戦っていた村上義清、諏訪頼重(信虎の娘婿)と連合して、小県(ちいさがた)郡を治めていた海野一族を攻めます。村上義清は以前から小県地方に勢力拡大を進めていました。

関東管領(東国支配の長官を補佐する室町幕府の役職)上杉氏を後ろ盾とする海野氏は武田氏・村上氏共通の敵とみなされたという背景もあります。

この戦いで連合軍は勝利し、海野幸義(海野氏嫡男)は戦死、当主棟綱は真田幸隆(棟綱の縁戚)と共に上州の上杉氏を頼って亡命します。

小県郡は村上義清の支配下となり、村上氏は東信濃・北信濃において最大の勢力となります。

海野平の合戦から帰国した武田信虎は、武田晴信(信玄)によって駿河に追放され、信玄が家督を相続します。

信玄は父の信虎同様に信濃侵攻を進め、村上義清と対決することになります。

天文11年(1542)信玄は諏訪地方の領主である諏訪頼重を攻め滅ぼし、諏訪郡一帯を支配下に置きます。

その後上伊那郡に侵攻した信玄は、佐久郡に兵を進めます。天文16年(1547)佐久郡で最後まで抵抗した志賀城主・笠原清繁も討ち死にし、城は陥落します。

佐久郡が信玄の支配下になったことで、隣接する小県郡を領地とする村上義清と対決することになります。

天文17年(1548)2月、上田原(長野県上田市)において信玄と村上義清は激突します。
信玄は7000の兵を率いており、村上義清は5000の兵を率いていたと言います。

兵力では武田軍が優っていましたが、上田原は義清の葛尾城からも10キロほどに位置し、地の利は村上軍にあります。

武田軍は遠征による疲労と志賀城攻めで大勝したことによる油断もあり、村上軍の猛攻を受けます。

村上義清本人が信玄の本陣に突撃してきたという言い伝えもあるとのこと。
義清は勇猛で長槍の名手とされています。

武田軍は板垣信方、甘利虎泰などの有力な武将が討死、信玄自身も負傷します。戦いは村上軍の勝利となり、日の出の勢いだった信玄にとっては初めての敗戦となります。

上田原での村上義清の勝利は、武田氏の支配下にあった信濃の国人を勇気づけ、村上義清を中心に結束、各地で反撃に出ます。

しかし5ヶ月後に信濃守護・小笠原長時が塩尻峠で信玄に敗れ、武田軍は再び優位にたちます。

塩尻峠の戦いで勢いがついた信玄は、天文19年(1550)7月小笠原領に侵攻、小笠原長時は本拠地である林城(長野県松本市)から逃亡します。

小笠原長時を破ったことで、信濃の中部・南部を支配下においた信玄は、村上領の小県郡に進出し、村上義清の重要拠点である砥石城(戸石城)を攻めます。
この時義清は高井郡の高梨氏と対立し、出陣していました。

戸石城は小さな城ですが、崖に囲まれた守りの堅い山城でした。9月に入り信玄は城を包囲して攻撃しますが、村上軍の激しい抵抗にあいます。兵力では圧倒的に優勢な武田軍は20日間に渡り攻撃しますが、城は落ちません。

武田軍が苦戦している間、村上義清は高梨氏と和睦し、葛尾城から軍勢を率いて救援に駆けつけます。

挟み撃ちにあった武田軍は退却しますが、これを見た村上軍が急襲します。殿(しんがり、軍の最後部)は大打撃を受け、武田軍は1000人近い死傷者を出して敗北します。信玄自身、ようやく窮地を脱したと言われています。

信玄は再度村上義清に敗れます。この戦いは砥石崩れと呼ばれ、信玄の生涯の中でも数少ない敗北であり、最大の負け戦となっています。

砥石合戦(砥石崩れ)に勝利した村上義清は小笠原長時と連合して、松本平(松本盆地)にも出兵しますが、天文20年(1551)真田幸隆によって砥石城が突然落城します。

真田幸隆は10年前の海野平の合戦で、村上義清に故郷を追われましたが、その後信玄に仕えていました。

詳しい方法は不明ですが、地元出身の真田幸隆が内部工作と奇襲で砥石城乗っ取りに成功したのでしょう。

砥石城を手に入れた信玄は、一気に攻勢に出ます。天文22年(1553)4月、村上氏側の諸城が陥落、孤立した村上義清は本拠地・葛尾城から逃れ、越後の上杉謙信に支援を依頼します。

謙信は義清に援軍を送り、義清は葛尾城を奪い返して塩田城で再起を図ります。信玄は義清攻略の兵を送り、最後の拠点塩田城に迫ります。天文22年(1553)8月、周囲の城は次々に落とされ、塩田城も落城。義清は謙信を頼って越後に逃れます。

北信濃が武田軍の支配下となり、村上義清、高梨政頼を始めとした信濃国人衆に救援を依頼された謙信は、信濃に出陣。こうして川中島の戦いが始まります。

村上義清は謙信の配下として、永禄4年(1561)第四次川中島の戦いにまで出陣したと言われています。61歳で参戦した村上義清は、信玄の弟・信繁を討ち取ったという伝承もあります。

越後では信濃衆の筆頭としての待遇を受け、元亀4年(1573)1月、越後にて死去します。故郷への帰国は叶いませんでした。亡くなった場所は諸説があり、確かなことは不明です。

武田氏滅亡後、上杉景勝に仕えた義清の子・山浦景国(山浦氏の養子となる)は海津城(長野市松代町)城代となり、短期間ですが旧領に復帰します。

人物

信玄を破った武将」として江戸時代に有名になったそうですが、実際の活躍を語る文書は少ないとのこと。歴史は勝者の側から語られるということでしょう。

村上義清に故郷を追われた真田幸隆が信玄に仕えて砥石城を落とし、信濃を追われた村上義清が川中島の戦いのきっかけをつくりました。

歴史にもしもはないのですが、人と人とが織りなす不思議な縁を感じることがあります。

村上義清の地元である長野県埴科郡坂城町には、義清の武勇や功績を讃える史跡が残っています。

強敵信玄に対し臆することなく立ち向かった村上義清は、故郷で今も語り継がれているのです。

創作作品

ドラマ「風林火山


関連項目

武田信玄 武田信繁 上杉謙信 真田幸隆 川中島の戦い

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