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村上義清

むらかみよしきよ

村上義清とは、甲信地方の戦国武将。信濃の北東部を領して村上氏の最盛期を現出し、当地への進出を図った武田晴信(信玄)を二度までも破った、北信の雄として知られる。(1501年-1573年)
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概要編集

生没:文亀元年3月11日(1501年3月29日) - 元亀4年1月1日(1573年2月3日)

父:村上顕国

母:斯波義寛の娘

正室:小笠原長棟の娘

幼名:武王丸

官途名:周防守など


河内源氏の祖・源頼信の次男である源頼清(もしくはその息子の仲宗)の流れを汲むとされる、村上氏(信濃村上氏)の(戦国大名としての)最後の当主。居城・葛尾城を中心に信濃の東部から北部を支配下におき、戦国大名村上氏の最盛期を築いた。長槍の名手として伝わる勇猛果敢な武将であり、一説には斎藤道三に先駆けて長槍足軽戦法を創始したともされる。


江戸期に入ると、「信玄を二度破った武将」として有名になったが、実際の活躍を語る文書は意外と少ない。しかし、あの信玄に対し臆することなく立ち向かった義清は、地元である長野県埴科郡坂城町にもその武勇や功績を讃える史跡が残されているなど、今なお故郷である北信濃における名将の一人として語り継がれている。


信濃村上氏編集

信濃村上氏は鎌倉時代末期には護良親王の忠臣として知られる村上義光・義隆父子を輩出し、義光の弟・信貞は建武政権で「信濃惣大将」に任じられているが、一方で足利尊氏がその建武政権へと反旗を翻すと、小笠原貞宗と共に北朝寄りの立場へと転じて勢力拡大を図った。

とはいえ室町期に入ると、室町幕府からの扱いに対する不満に端を発した抵抗や、小笠原氏の信濃での勢力の確立などを経て勢力を大幅に減衰させていたようで、史料上におけるこの時期の村上氏の系図が錯綜を極めている事もその一つの現われと考えられている。

しかし、15世紀中頃に小笠原家中で惣領職を巡る内紛が勃発、この混乱に乗じて当時の当主であった村上政清(義清の曽祖父)は海野荘や善光寺平などへと進出。勢力拡大の意志は政清から子の政国(義清の祖父)、そして孫の顕国へと引き継がれ、16世紀前半には小県郡からさらに佐久郡にまで勢力を拡大するまでに至っている。


村上武吉などを輩出し、瀬戸内の水軍として勇名を馳せた伊予村上氏は、この信濃村上氏から平安末期に分かれたと言われるが、これについては異説もある。


生涯編集

海野平の戦い編集

父・顕国から若くして家督を継いだ義清は、武勇に優れ周辺に勢力を広げたものの、佐久郡を巡る抗争では当地の有力者であった大井氏を下しながらも、同じく当地への進出を図っていた隣国・甲斐の武田信虎武田信玄の父)と激しい抗争において後れを取る格好となり、佐久郡は武田氏の支配下に収まる事となる。

しかし天文10年(1541年)、義清はその信虎と一転して同盟を結び、さらにその娘婿・諏訪頼重とも連合して、源平争乱期から因縁ある小県郡の豪族・海野一族を攻めてこれに勝利。当主・海野棟綱の嫡男である幸義を戦死させた(海野平の戦い)のみならず、棟綱や真田幸綱(幸隆)(棟綱の縁戚)らを上野へと追いやるに至った。こうして小県郡は義清の支配下となり、村上氏は東信濃・北信濃において最大の勢力となった。


海野平の合戦の直後、武田信虎は嫡男の晴信(信玄)によって駿河へ追放され、その晴信が家督を相続する。一方で同時期には長野業正率いる関東管領軍が佐久へと出兵、これに対峙した諏訪頼重が単独で和睦し領土の割譲を行っており、信濃方面における武田の勢力は大幅な後退を余儀なくされていた。

こうした経緯から、晴信は信虎時代の外交路線を破棄し、諏訪や村上を下して信濃での勢力を回復するという路線を選択。天文11年(1542年)にはまず頼重を攻め滅ぼし、諏訪郡一帯を支配下に置いたのを手始めに、上伊那郡や佐久郡にも侵攻。佐久郡で最後まで抵抗した志賀城主・笠原清繁も天文16年(1547年)に討ち、当地を支配下に治めた。


上田原の戦い編集

佐久郡が晴信の支配下に入った事により、隣接する小県郡を領する義清との対決は避けられぬものとなり、翌天文17年(1548年)に入ると晴信は北信濃への進軍を開始。対する義清も葛尾城から戸石城にかけての一帯に布陣してこれを迎え撃ち、2月14日に両軍は上田原(長野県上田市)において合戦の口火を切った。

この時の武田軍は7000、村上軍は5000の兵を率いていたとされ、兵力の上でこそ武田軍が優っていたが、一方で合戦の舞台となった上田原は義清の葛尾城からわずかに10キロほどに位置する地であり、地の利は村上軍にあった。


合戦の経過について言及している史料は限られているものの、緒戦において武田軍は先鋒の板垣信方が村上勢を打ち破り、敵陣深くにまで進むなど優位な状況にあった。しかしこの状況に板垣勢が油断したところを見計らい、村上軍も不意を突いて反撃に転じ、板垣信方や甘利虎泰を始め有力な武将を討ち取るという戦果を上げた。

さらに義清本人も、晴信の本陣にまで突撃をしかけたという言い伝えもあり、実際に晴信自身もこの時手傷を負ったとされる。かくして合戦は村上軍の勝利のうちに幕を下ろし、家督相続以来日の出の勢いだった晴信にとっては、初めての苦い敗戦となった。


上田原での義清の勝利は、武田氏の支配下にあった信濃の国人を勇気づけ、義清を中心に結束、各地で反撃の狼煙が上がった。義清も正室の兄弟である信濃守護・小笠原長時と結び、諏訪下社を占領するなど攻勢に出た。


砥石崩れ編集

しかし晴信も敗れたままではおらず、早くも7月には上諏訪への進出を図った小笠原長時を塩尻峠にて撃破。その余勢を駆って、武田軍は天文19年(1550年)7月には小笠原領に侵攻、長時を本拠の林城(長野県松本市)からも追いやり、信濃小笠原氏を没落させるに至った。

小笠原氏の没落に伴い、信濃の中部・南部が武田の支配下に収まった事で、武田には信濃北東部への再進出、そして上田原での雪辱を果たす機会が巡ってきた。同年9月、晴信は村上領の小県郡に進出し、義清にとって重要拠点である砥石城(戸石城)の攻略に着手する。

しかし晴信の意気込みとは裏腹に、砥石城は小城ながら崖に囲まれた守りの堅い山城であった上、守備兵の半数が前出の志賀城攻めでの生き残りとして、武田軍による凄惨極まる狼藉ぶりをつぶさに目の当たりにしてきただけに、彼らからの頑強な抵抗に遭った武田軍の攻略は至難を極め、兵力では圧倒的に優勢にも拘らず20日経っても落城には至らなかった。


一方この時、義清は予てより敵対関係にあった高井郡の高梨政頼と一戦を交えていたが、砥石城に武田軍が攻め寄せてきた事を知るや政頼との和睦に踏み切り、葛尾城から軍勢を率いて砥石城救援に駆けつけた。

これにより武田軍は砥石城の守備兵と、義清率いる後詰めの軍とに挟撃される格好となり、形勢不利を悟った晴信は退却を命じるが、村上軍はこの機を逃さず激烈な追い打ちを仕掛け、遂には武田軍を敗退にまで追い込んだ。この時の武田軍の被害は、先代から仕えてきた宿将・横田高松も含めて死傷者1000人近くに上り、晴信さえも影武者を身代わりとして辛うじて撤退に成功するという有様であった。

かくして義清は、晴信に二度までも苦杯を舐めさせる格好となり、後に武田家中で「砥石崩れ」と呼ばれるようになったこの敗戦は、晴信(信玄)にとっては生涯最大の負け戦とされる。


本領失陥編集

砥石城を巡る攻防戦に勝利した義清は、小笠原長時と連合して松本平(松本盆地)にも出兵するなど、引き続き強勢ぶりを示していた。ところがそれからわずかに半年あまり後、その優勢ぶりを一挙に覆す事態が発生する。それが真田幸綱による砥石城攻略である。

幸綱は前述の通り、上野に逃れ長野業正の庇護を受けた後、武田氏へと臣従し先の砥石城攻めにおいても、村上方に属していた埴科郡の国衆へと調略を仕掛けていた。駒井高白斎が『高白斎記』にて記すところによると、幸綱は調略による内部工作と奇襲により、わずか1日で難攻不落を誇る砥石城を攻略せしめたとされる。


この砥石城の陥落は、それまでの村上氏の優位を大いに揺るがす結果となり、傘下の国人の中からも武田方へ寝返る者が相次ぐようになった。そしてこれを契機として一気に攻勢に転じた武田軍は、天文22年(1553年)4月に村上側の諸城を陥落させ、義清を孤立状態に追い込んだ。

已む無く義清は本拠地・葛尾城から一時脱出し、越後の長尾景虎(上杉謙信)に支援を依頼。景虎もこれに応じて義清に援軍を送り、翌月には葛尾城を奪い返して塩田城で再起を図ったが、武田に対する反攻もここまでが限界だったようで、7月に再度北信濃に出陣した武田軍は周囲の城を瞬く間に落として塩田城を攻め、義清も遂に城より逃れ越後への逃亡を余儀なくされた。時に天文22年8月の事である。


晩年編集

村上氏の没落により、武田の支配領域は善光寺平にまで及ぶ事となった。これは即ち越後の長尾氏にとっても、本拠たる春日山城の付近にまで武田の脅威が迫ってきた事を意味するものであり、義清のみならず高梨・須田・岩井などの信濃国人衆からの救援依頼にも後押しされる形で、景虎は北信濃を巡る抗争へと身を投じる事となった。世に言う「川中島の戦い」の勃発である。


一方、越後へ逃れた義清は長尾家中へ迎えられ、越後南西の要衝である根知城を任された。また義清に従って越後入りした嫡男の国清は、景虎の猶子としてその養女を娶り、当時断絶していた山浦上杉家の名跡を継いで山浦国清(景国)と名乗る事となる。

永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)では、上杉方として当時61歳であった義清も参戦し、雨宮の渡しの守備を任された。この合戦で信玄の弟・武田信繁を村上勢が討ち取ったという伝承も残されている。


その後も10年あまりに亘って上杉家中に留まり、信濃衆筆頭としての待遇を受けていた義清であったが、本領回復という悲願が果たされる事は遂になかった。根知城(異説あり)にて、義清が73年の生涯に幕を下ろしたのは元亀4年1月1日、奇しくも仇敵である武田信玄が、西上作戦の半ばで病没する4ヶ月前の事であった。


その後の村上氏編集

義清の没後、その嫡男であった山浦国清は御館の乱上杉景虎方の重鎮・上杉景信を討ち、上杉景勝方の勝利に貢献。景勝より偏諱を受け山浦景国と名乗りを改め、天正10年(1582年)の武田氏滅亡と、織田氏の勢力後退を経て8月に海津城(長野市松代町)代に任ぜられ、ここに父の悲願であった旧領復帰を果たすに至った。

しかしそれも束の間の事に過ぎず、他家との内通を疑われた景国は根知城に戻され、家臣団も解体。これ以降の国清は目立った活躍の機会にも恵まれぬまま文禄元年(1592年)に死去し、山浦上杉家の家督も公家の猪熊光則(猪熊事件で処刑された猪熊教利の甥)に移るなど、村上氏の系譜は歴史の表舞台より姿を消して行った。


後に上杉景勝が会津へ移った後、堀秀治の与力として越後入りし、初代村上藩主となった村上頼勝(義明)は、義清の孫もしくは養子を称しているが、これについては義清の外孫、伊予村上氏出身説もあり未だ定かではない。


創作では編集


漫画編集

  • 雪花の虎:上杉謙信を頼り、川中島の戦いに至った経緯が詳しく描写されている。

信長の野望シリーズ編集

群雄伝から登場。群雄伝こそ白髪の老人だったが、天翔記から蒼天録にかけては、前出の上條恒彦に寄せたグラフィックになっていた。その後も基本的に髭面のいかついルックスである。能力値は強いことは強いが弱めの政治力とまずまずの知力を持つタイプで、龍造寺隆信などと似ている。


関連タグ編集

武田信玄 武田信繁 上杉謙信 真田幸隆 川中島の戦い

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