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今川氏輝

いまがわうじてる

今川氏輝とは今川家第10代目当主で今川氏親の長男。(1513年〜1536年。イラスト下の人物)
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13歳で家督を継ぐ編集

1513年、今川氏親の長男として誕生。弟に彦五郎今川良真泉奘今川義元氏豊がいる。幼名・竜王丸。


1525年、元服して氏輝と名乗る。翌年6月に父の氏親が死去すると家督を継いだ。しかしまだ13歳と若年であった為に、母の寿桂尼が後見人として補佐した。

親政を開始した矢先の急死編集

1532年、19歳になった氏輝は親政を開始する。


まずは遠江の領地に検地を行ない、更に朝廷には献上物を送って中央の関係を強化した。また馬廻衆の創設や流通の活性化の政策を実施。


また他大名の外交でも後北条氏との駿相同盟は維持され、1535年には北条氏綱と連携して武田信虎と対立する国人勢力を支援して信虎と争い、甲斐国都留郡山において信虎勢と戦っている。


1536年には冷泉為和とともに小田原に赴き、歌会に参加する等と活躍した。


しかし、名将の評判が立ち始めた途端、突如23歳の若さで急死した。また弟の彦五郎も後を追うように死去している。


余談編集

氏輝期の今川家は対外軍事行動が少なく、氏親期の施策を踏襲し安定した領国統治が行われていたと考えられている。


また、京都から駿河に数多くの公家がやってきて歌会等が開催されているが、氏輝本人も冷泉為和の門弟として和歌を学び歌会へも参加している教養人で、『新古今和歌集』などの古典も所蔵していたと伝わる。


氏輝と彦五郎の死去によって今川家は内紛(花倉の乱)が起こり、弟の良真と義元が争ったが最終的に義元が家督を継いだのであった。


信長の野望編集

覇王伝PKから初登場。総合ステータスは弟・義元に劣るが、天道PKでは義元と同じく弓適性がAと高めに設定されている。

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