人物
生没1545年~1575年。
金丸虎義の次男。通称平八郎。官途名は右衛門尉。
諱は他に直村や昌次とも。弟に昌詮(秋山信友の養子)や昌恒(土屋貞綱の養子)など。金丸氏は甲斐武田家譜代家老の家柄であり、父の虎義は板垣信方と共に武田信玄の守役を務めた。
奥近習六人衆(幹部候補生)の一人として、信玄に仕える。当時、同僚には真田昌幸らがいたが昌続は六人衆の筆頭であり別格扱いされていた。
『甲陽軍鑑/品第四十三』によれば「土屋右衛門尉(虎義)、元来は金丸筑前守と申仁、武田の家の中老也、此子息七人あり、……、二男は平八郎とて、信玄公御座をなをし」とある。「御座をなをす」は夜伽の相手を務めること。なお同書に弟の土屋昌恒も「五番は金丸惣蔵と申て、今勝頼公御座をなをし候」とある。
第四次川中島の戦いにおいては、信玄の本陣を守っていた。その際上杉軍が本陣まで迫ってきたが、これに臆することなく信玄を守り、それを大きく評価された。22歳の時に侍大将となるなど破格の抜擢を受ける。それからしばらく経って、甲斐の名門である土屋氏を継ぐことになり、金丸姓から土屋姓に改姓した。
また、武将としてだけではなく信玄側近の奉行衆としても活動する。特に取次(現在でいう外交官や交渉役)としての働きが有名で、他の取次とともに、新たに獲得した地域などの国人衆との交渉を行っていた。国人衆との関係は領内の治政に大きくかかわってくるため、これは重要な仕事だったといえる。
また、関東の大名家(里見氏など)との外交にもあたっていた。
かの徳川家康が焼き味噌をこぼしたことで有名な三方ヶ原の戦い(1573)では、徳川軍の鳥居信元と一騎打ちを行い、その首級をあげたことで、武将としての名をあげた。
この戦いが終わってしばらく後に、武田信玄が上洛を間近にして没する。主君の死に際して、昌続は殉死を願い出たが、武田四天王の一人・高坂昌信の説得により、思いとどまった。
信玄の跡を継いだ武田勝頼にも臣従し、1575年には長篠の戦いにも参戦する。
この際織田軍は鉄砲を使用して武田軍を迎撃したといわれるが、その織田軍の馬防柵を突破すべく昌続は特攻した。三枚ある柵の二枚目まで進撃したが、鉄砲の射撃に貫かれ戦死。享年31才。
壮絶ながらも華々しい最期だった。
土屋氏のその後
元今川家臣で駿河海賊衆の土屋(岡部)貞綱の婿養子になっていた土屋昌恒(惣蔵)が長篠で戦死した舅と兄の両土屋氏を継承しそれぞれの遺臣を率いた。昌恒は武田家滅亡時に「片手千人斬り」の活躍を見せて散ったが、息子の土屋忠直はのち江戸幕府において上総久留里初代藩主となり土屋の名を保った。ちなみに江戸期の土屋氏は分家の土浦藩から老中を輩出したりもしている。
なお、武田二十四将の家で江戸期に大名まで出世したのは土屋家と真田家のみである(二十四将以外なら、のち会津松平家になった保科家がある)
ちなみにかの新井白石は最初、土屋家臣だった。
その他
奥近習六人衆かつ信玄の側近であり、後世では武田二十四将にあげられているが、存命期間の短さや活躍の微妙な地味さゆえに、知名度はあまり高くない。そのため、戦略ゲー以外への出演はほとんど皆無である。しかしその器用さや、若年にして武田二十四将に数えられているということは、特筆すべき事実である。
戦国大戦において
ATCGの戦国大戦では、武田家の騎馬隊として、「土屋昌次」の名で登場。
投稿されたイラストの多くは、これを元にしている。
スペックはコスト1.5 武力5/統率5の騎馬隊。
史実通りの平均的な能力と、低コストでは数少ない超絶強化計略、「悍馬一閃」(かんばいっせん)を持っている。
チャージ式のタッチアクションに変化し、画面上で突撃可能状態になった状態の土屋のカードを押さえて移動させているとタメが開始され、およそ1カウントで最大までチャージされる。
離すとそのチャージ時間に比例した分だけの距離を突撃し続け、突撃が決まった場合はそのチャージ度合いに応じたボーナスが付いた突撃ダメージを与える。
最大限までタメた場合の破壊力はすさまじく、「毘天の化身」状態の上杉謙信にさえ半分程度の兵力を持っていく。
ただし、外してしまうとピンボールのように自城・戦場端・敵城にぶつかると跳ねかえって進んでいってしまう。
これを応用し、相手の裏に回り込みつつ激烈な突撃をぶつけられなくはないが、少々難しい。
弱いカードというわけではないが、より使いやすい木曽義昌が同コスト帯にいたり、秋山信友が上位互換計略を持っていることから、イラストの割に使用率は低い。しかしながら計略の破壊力はすさまじく、使ってみると結構強かったりする、優良なUCである。ある意味史実を再現したポジションだといえるだろう。
「先へ進みたいなら
俺を倒していくんだな!」
戦国無双において
『戦国無双〜真田丸〜』では、同じく奥近習六人衆の真田昌幸の親友「土屋昌次」として登場。
同僚である昌幸とは気安い間柄で、軽口を叩き合うような仲である、無類の忠義者として描かれた。