ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

織田信勝

6

おだのぶかつ

織田信勝とは、中部地方の戦国武将。織田信長の同母弟であり、尾張の支配権を巡って信長と対立、その末てに謀殺の憂き目にあった。一般には信行の名で知られる。(1536年?-1558年)

生没:天文5年(1536年)? - 永禄元年11月2日(1558年12月11日)

別名:信行(※)、逹成、信成

通称:勘十郎

受領:弾正忠、武蔵守

尾張の戦国武将・織田信秀の三男。

兄に信広(異母兄)・信長(同母兄)が、弟に信包長益(有楽斎)らがいる。

父・信秀の死後、織田弾正忠家の有力者の一人として台頭、やがて家督継承者である兄・信長に不満を抱く家臣らによって対抗馬として擁立されるも、両者間の対立は信長の勝利という形で決着を迎える。

しかし、その後もなお織田家の乗っ取りを諦めようとせず反抗姿勢を取り続けていた事から、最終的には一計を案じた信長によって誅殺されるに至った。

史料上において、信勝の詳細な人となりを伝える記述は限られているものの、美濃の白山社への仏像光背の寄進や、居城である末森城内に加賀の白山比咩神社より分霊を迎える(後の城山八幡宮)等、白山信仰への傾倒を窺わせる事績が複数残されている。

また、常日頃から素行が悪く、「うつけ者」と称される事もあった兄・信長に対し、信勝は品行方正で通っていたとされる。実際、『信長公記』首巻にはこれを裏付けるかのような父・信秀の葬儀にまつわる逸話も残されている他、生母の土田御前が信長よりも信勝の方を可愛がっていたとも伝わっている。

兄・信長と同様に鷹狩にも堪能で、百舌鳥を用いた珍しい鷹狩を好んだとも伝わっている。

(※ 一般に広く知られる「織田信行」の名乗りは、早くとも江戸期に入ってからの系図などに見られるものであり、同時代の信頼性の高い史料にはその名を確認する事は出来ない。また織田信長や織田氏を語る上で欠かせない『信長公記』においては、一貫して通称の勘十郎として記されている)

生涯

信勝の台頭

父・信秀の晩年より、信勝の生まれた織田弾正忠家による領国支配は信秀と、嫡男で那古野城主の信長による二元体制によって行われていたが、父が病床に伏した天文20年(1551年)頃より、信勝もこれに代わって領国支配に参画する事となる。

当初は同等の地位・権限を有し、連携して領国支配や対外抗争に当たっていた信長・信勝の兄弟であったが、一方で父・信秀の死に伴い弾正忠家当主の居城・末森城を信勝が継承した事、また佐久間盛重柴田勝家林秀貞らの重臣が信勝に附けられていた事などから、弾正忠家の内部において相当の権勢を保持していた信勝は、信長にとっては早くから潜在的な脅威であったと見られている。

この両者の対立は、後に事件を起こした叔父・織田信次への対処で明確になる。

弘治元年(1555年)、信次が狩りをしていた際、その横を騎乗のまま黙って通り過ぎようとした若武者がいた。家臣の一人がこれを無礼として威嚇の射撃を行ったところ、誤って射殺してしまう。その若武者というのは実は信長・信勝の同母弟・織田秀孝であり、それに気づき驚愕した信次はそのまま出奔してしまう。

これに激怒した信勝は、信次の領する守山城下を焼き払うが、一方の信長は共回りもつけず単騎という無防備だった秀孝にも非があるとして、信次の所業を不問に付した。

この事件を機に、一族の繋がりを重視した信勝の方に家中の期待が集まるようになる。

兄との対立

やがて弾正忠家と競合していた、清須の織田大和守家(守護代家)が信長に滅ぼされ、さらにその大和守家討滅で協力関係にあった織田信光(信長・信勝の叔父)らの死去により、弾正忠家内における有力者は信長と信勝の二人に絞られる事となり、次第に兄弟間での対立の構図が浮き彫りにされていった。

家督を継いでいたとはいえ、この当時の信長の立場は依然として不安定なものであり、一方の信勝はこの時期より達成(みちなり)と改名。弾正忠を名乗るようになる。この達成の「達」の字は、大和守家の当主の用いていた名とも共通する物であり、この事から達成への改名は弾正忠の名乗りと併せて、「自らが大和守家の代行と弾正忠家の当主の座を担うに相応しい者である」という意思表明と考える向きもあり、信勝が次第に増長し始めていた事をうかがわせている。

そして弘治2年(1556年)、信長の舅に当たる美濃の斎藤道三が長良川の戦いで討死したのを機に、家中では道三という有力な後ろ盾を失った信長を排し、信勝をその後釜に据えんとする動きが表面化。林秀貞林通具兄弟や柴田勝家ら信勝派の家臣らに擁立される形で、信勝も遂に信長への対立姿勢を鮮明に打ち出す事となる。

しかし同年8月に稲生原にて行われた合戦では、兵数の上でこそ信勝側が優位に立っていたものの、信長側はこの苦境を跳ね返して合戦を制し、林通具ら主だった武将を失った信勝側は敗走を余儀なくされ(稲生の戦い)、敗戦後は母の取りなしで赦免された。

謀殺

赦免された信勝は、弾正忠達成から武蔵守信成と名を改める等、その勢威を大きく低下させる事となるのだが、その後も表向きは信長へ臣従しつつ、同族の織田信安(岩倉織田氏当主)や美濃の一色義龍(斎藤高政)とも通じて尚も反攻の機会を窺い続けており、最早兄弟間の溝は到底修復出来るものではなくなっていた。

しかし、この頃になると信勝自身の行動にも問題が目立つ様になった。

信勝は父の信秀によって任され長年織田家に仕え続けた重臣である勝家を始めとする古株の家臣達よりも、修道相手である津々木蔵人を寵愛して依怙贔屓する様になり、津々木の一派はそれを良い事に家中で横柄な振る舞いを見せ、信勝自身も諫めようとしなかった。

敗戦後の処遇への不満も重なり、当然古株の家臣達からは信勝に仕え続けても碌な事にならないと愛想を尽かされ始め、何とか筆頭格である勝家が間を取り持とうとしていた。だが、信勝は結局信長への二度目の謀反を目論むばかりか、疎ましい存在となり始めていた勝家までもこの機に乗じて始末しようと画策し、それを知った勝家はこのままでは信長どころか自身の命までも危ういと感じて信勝に見切りを付ける事を決意。事の詳細を勝家から聞かされた信長にも謀反の企てが露見した結果、このまま信勝を放置すれば織田家そのものの土台を揺るがしかねないと危惧した信長が、遂に信勝排除の意思を固める決定的な事態となってしまった。

表立って兄弟が再び争う事になれば他国に弱みを見せてしまう事を危惧したのか、信長は自らが重病にかかり危篤に陥ったとの風聞を広め、これを真に受けた何も知らない信勝は母を連れて見舞いの為に清州城へ赴いたが、そこで織田家臣の河尻秀隆・青貝某の手に掛かり敢えない最期を遂げた。時に永禄元年11月2日、享年21(異説もあり)。

信勝の死後、遺児の坊丸は許され、後に津田信澄と改名して信長に仕え明智光秀の娘を娶るなど重用された。その信澄も、本能寺の変の際に神戸信孝丹羽長秀に疑われ大坂城で上田重安(宗箇)に討たれ悲劇的な最期を遂げているが、信澄の血筋はその旧臣であった藤堂高虎との関わり合いなどを経て、江戸幕府の旗本として明治まで命脈を保った。

フィクションでの信勝

よくある扱いとしては、端的に言えば「信長の踏み台その一」。

兄弟で家督を争うという構図自体は、他の大名家でもよくある話だが、信勝の場合は兄の信長があまりにも有名になってしまった上に、「破天荒な兄」と「品行方正な弟」という対照的な対立構造まで出来てしまっている為、山岡荘八の『徳川家康』『織田信長』の様に「身の程知らずの野心家」として描かれるか、もしくは「昔は信長と仲が良かったが生き方の違いから険悪となってしまった」とされるかのどちらかとなる。

また、実の弟であった彼の裏切りと死が、信長を非情にしていくに至ったと見られてもいる。

稀に彼自身も優れた人物であり、兄の器を理解した上で挑んだとされることもある。

ただ、同じく信長の踏み台となってしまった今川義元等と違い、若死の上に再評価の材料になるような功績も確認されていない。それ所か、修道関係となった家臣を依怙贔屓するばかりか旧臣達の中でも重臣として仕えていた者を始末しようとして我慢の限界を迎えた彼等に見限られてしまう等、問題的な面の方が目立っている。

これらから、結局の所「真面目な振る舞いが取り柄なだけで大した功績を出していないにもかかわらず、自らと兄・信長の力量の違いを理解出来ていない上に、修道相手に入れ込んでその一派を増長させて旧臣の反発を招き、挙句の果てには重臣の排除を考えるだけでなく一度反乱を許してもらいながらまた反乱に及ぼうとするという、不義理なだけでなく愚行に愚行を繰り返した人物」というボロクソも良い所な評価に帰結してしまう為、彼の扱いは今後もそう変わらないと思われる。

なお、これと同じ形で対比される兄弟として、戦国時代で活躍した伊達政宗伊達小次郎の兄弟や、江戸時代初期の人物である徳川家光徳川忠長の兄弟が挙げられている。このうち後二者については、信勝にとっては姪孫に当たる間柄でもある。

戦国大戦英傑大戦

CV:三澤紗千香

織田の当主は、私だー!

品行方正だが神経質な青年。兄の器量が理解できず、また、破天荒な兄のせいで周囲から窮屈な生き方を押し付けられている鬱憤を爆発させ、織田家の当主の座を巡って兄と対立する。

ゲーム的には決して強くはないが、かといって弱くもなく、織田家では数少ない範囲妨害持ちと汎用性は高い。

スペックは1,5コスト武力5統率4の防柵持ち鉄砲。

英傑大戦では戦国大戦での実装から12年経ったのもあって演技の成長が見られる。単体妨害になったが(ちゃんと使えば)呂布とかホウ徳なんかの超絶騎兵をメタれるので、使い勝手の良さから重宝された。

しかし、士気が軽く撃破時に覇道前進効果がついた尉繚の実装で現在は憂き目を見ているのが現状。

スペックは1,5コスト武力5統率6の伏兵持ち鉄砲。

センシティブな作品

中性的な外見や声も相まって男の娘扱いされることも。

センゴク

『センゴク外伝 桶狭間戦記』に登場。父信秀の気性を強く受け継ぎ、母土田御前に溺愛されている。単純に品行方正なだけではなく、一廉の武将としての片鱗をのぞかせ、その野心で兄信長を討とうと挙兵する。しかし、味方につけた筈の熱田商人たちに裏切られ、謀反には失敗。その後も抵抗を続けるも、やがて柴田勝家ら重臣にも離反される。自分の敗因となった『銭』について自問するが、遂には母の目の前で兄信長に討たれた。

戦極姫シリーズ

1~2では、織田家シナリオでの再序盤の敵として登場。権力を笠に着て横暴に振るまい、領民や娘の拐かしに人身売買にまで手を出すなどかなり非道で愚かしい人物として描かれている。遂には姉に対して謀反を起こすが、敗れて討たれる。かつては姉をとても慕っていたが、自分より優れた能力を持ちながら遠慮から自分に当主を譲ろうとした事がきっかけで、姉に対する憎しみと強烈なコンプレックスを持つようになったらしい。

3以降は女性キャラに変更されており、既に謀反を起こして許されていたり、その動機が姉の気を惹くためであったり、展開次第では当主になる事もあったり、など大きく設定が異なる。

信長の忍び

前日譚である『尾張統一記』に登場。お市似の美少年である。髪は母・土田御前と同じ小豆色。

幼少期より、「ああいうバカにはなるな」と信長を反面教師とするよう、母や側近から教え込まれていたがために、異常なまでに反骨的な少年に成長してしまう。その結果、はからならずも本作におけるラスボスとなってしまい、最後は恩人である勝家さえも邪魔だと見るや切り捨てるような、兄以上に冷酷な人物に成り果ててしまう。

今際の際には信長を「弟殺しの悪魔として語られ続けろ」と呪いながら息を引き取り、滅多なことで涙など流さない第六天魔王の目に涙を燈した。

信長の野望シリーズ

初期の作品では信行の名で登場したが、基本的に信勝名義の作品が多い。

信長の野望創造では家督争いを再現して独立大名として柴田勝家・林秀貞を従えているシナリオも登場。しかし信勝の能力値は政治と知略は辛うじて並で戦闘面の能力が低いといういまいちな物で難易度は高い。

シリーズ通して見ると戦闘面は常に低く、知略は作品によって低いかやっとこさ並のいずれか、政治は安定して並程度と優秀な人材が多い織田家中では完全に埋没する能力。

戦国無双シリーズ

※こちらは「織田信行」名義になっている。

無双奥義・無双秘奥義の文字…【温】『穏』

区分:固有武将

得意武器:刀

所属:織田

CV:田邊幸輔

戦国無双5』から登場。

兄と比べて優しく大人しい弟。

関連タグ

戦国大戦 織田信長 土田御前 柴田勝家 織田信行

織田信雄…甥(信長の子)。名前の読みが(のぶかつ)と同じな為か、差別化の為に時代劇では信行と名乗らされているのであろう。

徳川忠長…信勝の甥孫(市姫の孫)。信勝同様に実母に偏愛されて増長した結果、兄の家光と対立、最期は粛清されるなど酷似した生涯を送っている。

武田信繁武田信玄の弟。有名な戦国武将の弟(すぐ下の同母弟)、と言う点で何かと好対照な武将。一時は廃嫡の危機にあった兄に取って代わる可能性すらあった身だが、当主となった兄をよく補佐し、早世した後も副将の模範と謳われた人物。真田信繁は彼に倣った名とされる。

コメント

コメントはまだありません

pixivに投稿されたイラスト

すべて見る

pixivに投稿された小説

すべて見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ

織田信勝
6
編集履歴
織田信勝
6
編集履歴