生涯
東北の戦国大名・伊達輝宗の次男。幼名は竺丸、諱は一説に政道ともいうが、同時代の史料上でこれを裏付ける記述が見られない事にも留意されたい。また生年についても天正2年(1574年)もしくは同6年(1578年)とする説もある。
伊達氏の子であると同時に、数代前より蘆名氏の血も引いていた事から、早いうちより小次郎が成長した後蘆名氏に入れる事が、父・輝宗と蘆名盛氏との間で約束されていた。実際に天正12年(1584年)に蘆名盛隆が暗殺された直後、さらにその実子の亀王丸が夭逝した際と、度々小次郎が蘆名氏の家督候補として擁立されるも、蘆名家中の佐竹氏寄りの家臣らの反対工作によっていずれも失敗に終わっている。
一方で、母の義姫が小次郎を溺愛していた事から、兄の政宗とは一時家督を争う立場にもあったが、結果的には天正12年に政宗が家督を継ぐ形で決着を見ている。しかし政宗の小田原参陣を間近に控えた天正18年4月7日(1590年5月10日)、会津の黒川城下にて突如22歳の若さで急死(死因やそれにまつわる諸説については後述)。
小次郎の遺骸は当初は会津に、そして奥州仕置の後には陸奥横山の舎那山長谷寺(現・宮城県登米市)に埋葬された(この時、傅役であった小原縫殿之助も殉死している)。またこの時、政宗からは7代の勘当を言い渡されており、小次郎に対する法要が営まれるのは200年余り後の寛政5年(1793年)、8代後の仙台藩主・伊達斉村の治世に入ってからの事であった。
死因とそれにまつわる謎
小次郎の突然の死について、伊達氏(仙台藩)の正史として編纂された『伊達治家記録』には「政宗が小田原参陣の直前、母の義姫の招きを受けて彼女の元に赴いた際、義姫と小次郎の策によって政宗は毒殺されかけ、これがきっかけで政宗自ら小次郎を殺害した」と記されており、これが今もなお通説として広く知れ渡っている。一方で毒殺計画はあくまで義姫単独によるものであり、小次郎はその責を負う形で自害に追い込まれたとも言われる。
しかし、この『伊達治家記録』が最初に編纂されたのは早くとも貞享年間、つまり小次郎の死から1世紀近くも後の事である上、『伊達治家記録』の元となった『伊達天正日記』の小次郎急死当日の記述にも一部欠落した箇所があるため、後世の創作ではないかとの疑義も呈されている。
さらに言えば毒殺事件の首謀者とされる義姫についても、処断されるどころかその後しばらくの間政宗と親しく書状のやり取りがあったという、上記の説とは矛盾する事実も同時代の資料より明らかにされているのである。
小次郎の死に関してはもう一つ興味深い記録が、政宗とも係わりのあった武蔵の金色山大悲願寺(現・東京都あきる野市)に残されている。同寺の過去帳の記すところによれば、江戸初期に同寺の15代目住職を務めた秀雄という人物が、元は伊達輝宗の末子(次男)であるとされ、また政宗が没した際にも兄弟である事からこれを供養した事を、秀雄自らが書き記してもいる。
(記録に残されていない落胤の存在も否定は出来ないものの)系図上において輝宗の実子は政宗と小次郎の二人のみしかおらず、この大悲願寺の記録を事実として、秀雄を小次郎と同一人物であると仮定するならば、小次郎は急死したとされる天正18年以降も存命であった事になる(秀雄が没したのは寛永19年(1642年)で、政宗の死からさらに6年も後の事である)。
この事から、そもそも前述の毒殺事件と小次郎殺害は、小田原参陣を間近に控え家中が動揺する中、不穏分子によって当主に担ぎ出される可能性もあった小次郎を亡き者として扱う事で、これを鎮め家中の一本化を図るべく、政宗と義姫が仕組んだ狂言ではないかという説も近年呈されている。
この他、前出の長谷寺の小次郎の位牌に記されていた没年月日が文禄元年(1592年)1月4日とある事から、天正18年時点では小原縫殿之助らの計らいで生存していたものの、2年後に改めて誅殺(もしくは死亡扱い)されたのではないかとも見られている。
これについては当初世継ぎがいなかった政宗が、万が一の事態に備えて小次郎を生かしておいた事を黙認していたものの、天正19年(1591年)12月に庶長子の秀宗が生まれた事でその理由が消失したため、改めて小次郎に対して処断を下したという可能性も指摘されている。
各種創作
『独眼竜政宗』
演:岡本健一
1987年放送のNHK大河ドラマ。幼少期から兄・政宗(演・渡辺謙)との兄弟仲は良好であったものの、母の偏愛を受けていたことによる蟠りもあった。豊臣秀吉(演・勝新太郎)の圧力や伯父・最上義光(演:原田芳雄)の教唆に恐れを抱いた母・お東の方(演・岩下志麻)]と、秀吉や義光をも恐れぬ政宗の間での確執の末、家中の混乱の源であると涙ながらに兄に殺害される悲劇が描かれた。
隆慶一郎原作、原哲夫作画の漫画。同作では母方の伯父である最上義光らによって傀儡にされそうだったため、政宗に殺されたことにして出家、放浪の旅に出たものとして描かれている。