概要
武士団における最下層の兵種。本来は臨時雇用で一代限りの身分であり、身分ではなく職業といったほうが良いかもしれない。兵種としては歩兵に相当する。
足軽は明確な武士ではなく、身分が低い人々で構成されているために、史料が欠乏しており、当時の正確な運用方法や動員方法などよくわかってない点が多い。
足軽と似たような存在に雑兵がいるが、識者によって認識が異なり、「雑兵と足軽は別物である」とする説と「足軽は雑兵の一形態」である説など諸説ある。
足軽はこんな人
以下は戦国時代の例
(※実際には地域ごとに差がある。)
武家奉公人
足軽の主な構成員の一つは、武家奉公人であった。武家奉公人というのは、大雑把にいえば日頃から武士に付き従う召使いのような人と思えばいい。(時期によって武士を補佐する武士を含めることもあるため、必ずしも武家奉公人=非武士というわけではない。)
足軽といえば「大名が合戦の度に、農村部から農民を強度的に連れて来て兵士にする」というイメージが根強いが、実際には緊急事態を除いて、大名が農民を「戦闘員」として徴用することはあまりなかった。……というのが現在の定説になりつつある。
もし緊急時以外で農民を徴用する場合は、大抵は夫丸と呼ばれる、物資の運搬や陣地の設営など、戦闘に直接参加しない作業員として従事させた。
これは農民が兵士として使えないという意味ではなく、兵士として連れて行くと農村から不満が出て、税の徴収や支配に支障を来すことを恐れたためであるともいわれる。
軍役衆、地侍、土豪、半兵半農など
実際には大名によって政策にばらつきがあるため、大名によっては、農民や町人などの民衆から戦闘員を調達することもあった。そのような場合は、予め各町村内か、町村大名間で決められていた者たちを戦闘員として徴用された。
このような人々は現代では俗に半兵半農とも呼ばれることも多く、彼らは古い説では武士の一種と考えられてきた。
しかし、現代では半兵半農は武士ではなく、民衆の一形態だったというのが定説であり、正規の武士からは、武士として認められていなかったようである。
半兵半農は武家奉公人とは違い、平常時は農業などに従事する存在であったが、村の中での身分は高く、村の政治や治安に関わる立場の者が多かったとされる。(当時は町や村の中に、民衆の間で身分制度が敷かれており、農作業をする者、商いをする者、町や村の武力を担う者と分業化がなされていた。)
半農半兵は農作業はより身分の低い農民にまかせ、自身は村の防衛や合戦への参加に明け暮れ、時には隣村への略奪をしていた。
武家奉公人にせよ、半兵半農にせよ、武士に気に入られれば、武士階級に昇格することもある存在だったのは共通しているが、時代や当事者内での関係性によっても、扱いが変わるのでこの辺は複雑である。
歴史
元は平安~鎌倉時代において、戦場での下働きの作業員でしかなく、戦闘に出ることはほとんどなかった。
これが室町時代(南北朝の動乱期)になり、戦法が「少数の騎兵」から集団戦法へとシフトしていくと、武士だけでは戦闘員が不足するようになった。そのため武士以外の人間、農民、職人、商人らも戦闘に参加するようになり、これらはやがて足軽として室町後期には部隊構成員の大半を占める下級兵として扱われるようになっていった。
当時の足軽はならず者の集団と紙一重で、応仁の乱では、この足軽の跳梁によって京都は焼け野原と化してしまい、貴族たちは「下克上」の世を嘆いた。
やがて足軽は、戦国武将の台頭によって、戦闘員として訓練され、整理された戦闘部隊となっていく。
その軽装を生かした機動力と、数による集団力で相手に立ち向かう一方、捨て駒や陽動として切り捨てられることも多い非常にシビアな役回りにいる。
一方で戦国時代前期では京都を中心に一大勢力として横行しており、さながら世紀末のモヒカンの如く乱行の限りを尽くす恐怖の集団と化している勢力もあった。
足軽の装備
時代や個人によってばらつきがあり、戦国時代の半ばあたりまでは特に規定はなかった。
装備は基本的に自主調達がメインであり、大名から武具を支給されるようになったのは戦乱の時代も終盤に差し掛かった頃である。
(足軽として招集される身分の人々は、鎧や刀、槍や弓を自前で調達できる人が多かった。逆に言うと乞食や浮浪者は足軽にもなれなかった。)
平安時代~鎌倉時代
鎌倉時代までは、普段着の上から胴鎧を着込み、薙刀(+短刀)や太刀(or打刀)といった接近戦用の武器で武装していた。
なお、兜は単なる防具ではなく、身分証のような役割も兼ねていたため、足軽が兜をかぶることは皆無だった。
室町時代
服装はそこまで変化はないが、胴鎧すら着ないものも現れる。
使用する武器に新たに弓や槍が加わる。この時代でも足軽は兜を滅多に着用しなかった。
戦国時代
武装に銃が加わる。槍も長いものが使われるようになった。
それだけでなく武装にもある程度の規定が現れ、この時代から武器別に細かな部隊編成がなされるようになる。
兜を着用する足軽も増加する。
室町時代までの部隊編成は、弓部隊とそれ以外(槍・薙刀・太刀がごちゃ混ぜ)という大雑把なものが基本だった。
戦国時代末期~江戸時代初期
戦国時代も終わりに近づくと、胴鎧・籠手・脚絆・陣笠という10kgに満たない軽装に、所属する部隊に合わせた武器を与えられるようになる。装備によって「槍組足軽」・「弓足軽」・「鉄砲足軽」というように分類され、共通武装として刀だけは一様に持たされている(というか、当時は農民から乞食にいたるまで刀くらい持っているのが常識であった)。
兵糧として水筒・米(もしく糒)・芋がらなどを携帯していた。陣笠は鍋にもなる。
ただし、戦国時代中期の足軽の中には重装歩兵に匹敵するものもあり、一概に軽装ばかりとは限らない。
身分
その大部分が百姓であり、各大名たちが自領から何らかの方法で徴兵してくるのがほとんどである。
当時の百姓は専業農家とは限らず、職人も商人も猟師も混ざっていた。
内実も様々であり、そのへんの武士より戦慣れした古強者もいれば、武器を持ったこともない素人もいた。
手柄を挙げて武士にのし上がる者もおり、特例ではあるが豊臣秀吉・豊臣秀長兄弟のような大名クラスの権力者にのし上がった者もいた。
ひと昔前は、戦闘が終わるごとに村に帰り農作業に戻っていた、と思われていたが、現代では大名や武士に丸抱えされ、下級兵として常雇の身分だったとみなされているが、上述の地侍(≒半兵半農だが、武士階級の場合もある)の扱いの曖昧さもあり、ケースバイケースだったと考えた方が良いかもしれない。
江戸時代以降の扱い
乱世から太平の世に移り、足軽も世襲化が進んで下級武士の末端という扱いになっていった。多くの者は大身の武士の家来として仕えた。あるいは徒士(かち)や同心となり、藩や幕府の下働きを行った。さらに一部の者は姓と帯刀を許されて郷士(ごうし)となり、郷土の治安維持などに一役買ったりもしていた。
藩によって庶民扱いや武士の最下級など扱いはいろいろであったが、総じて生活が何とか維持できる程度の薄給であった。現代でいえば役所で秘書や事務作業、警備員などの仕事を務める非常勤職員(非正規公務員)のようなものである。こうした扱いは江戸幕府が崩壊し、明治時代に至るまで続いた。