概要
治承四年(1180年)八月、甲斐源氏棟梁の武田信義らとともに源頼朝の挙兵に応じて兵を挙げ、波志太山の合戦で俣野五郎景久・駿河目代橘遠茂らの軍を撃破した。
寿永二年(1183)七月に源義仲が入洛すると、義定も呼応して上洛、京中の守護を分担し、八月に従五位下遠江守に任じられた。これによって、実力による義定の遠江国支配は国家から公認されたことになるが、さらに義仲が北陸道追捕使に任じられると、義定は東海道の追捕使に任じられている。頼朝は両名のこの地位を「鎌倉殿御代官」と主張している(吾妻鏡)が、十月宣旨以前の義定が頼朝・義仲のいずれとも距離を置く同盟者であったことは、延慶本・長門本など読み本系の『平家物語』の記述にも明らかである。義定は間もなく義仲と袂をわかち、その滅亡後は平家との一谷の戦に搦手軍として参加、文治五年(一一八九)の奥州征伐にも従軍しており、頼朝との関係は次第に御家人的な色彩を強めるようになる。
とはいえ義定の遠江守重任は稲荷社修造の成功によって実現したものであり、その遠江国は頼朝の知行国でもなかった。義定の遠江支配は国司守護兼帯の強力なもので、建久元年に勅院事対捍を口実に下総守に遷されるが、頼朝の尽力があったためか翌年三月には復任している。
現在の地位を実力で手に入れたと自負する義定と、頼朝の軋轢は次第に深まっていく。
建久四年十一月、嫡子の田中義資が院の女房に艶書を送った(=ラブレターによるナンパ)ことが明るみに出て梟首される。これに連座して義定の所領遠江浅羽荘を没収され、翌年八月十九日には謀反計画の発覚を口実に義定も梟首された。享年六十一。
その鎌倉の屋敷は北条義時に与えられ、遠江の守護職も北条家領となる。
義資の付文を表沙汰にした人物は頼朝の腹心梶原景時であり、同年には源範頼が兄頼朝の猜疑により配流・誅殺されている。さらに遡ること10年前には、信義の次男・一条忠頼も頼朝の勘気を蒙り、宴席で頼朝の命を請けた小山田有重・天野遠景らに殺され、頼朝や範頼の弟である源義経も平家滅亡後に頼朝と対立し追討を受ける身となり、以前から頼朝と対立していた源行家も討たれ、忠頼の弟の板垣兼信は義経が滅んだ翌年に隠岐へ配流されている。
これらのことから、安田親子もまた、有力源氏一門としての自立性の高さを頼朝に危ぶまれて粛清されたと考えられる。
なお、甲斐安田氏は絶家したが、戦国時代後期の当主である武田勝頼の命で還俗した弟の玄竜(武田信玄の七男)が安田姓を与えられ安田信清と名乗り安田氏は再興された。しかし武田家滅亡後、義兄の上杉景勝に仕えてからは武田姓に復姓し米沢武田家となったため甲斐安田家は絶えている。
一説には信玄の三男で早世した西保信之が安田姓を名乗ったことがあるとの説もあるが定かではない。