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武田信清

たけだのぶきよ

武田信玄の七男。一時期安田信清を称した。米沢武田家初代当主。上杉家御一門衆筆頭。米沢藩士。永禄3年(1560年)-寛永19年3月21日(1642年4月20日)。
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プロフィール編集

永禄3年(1560年)(もしくは永禄6年(1563年))~寛永19年3月21日(1642年4月20日)

父:武田信玄

母:禰津御寮人里美

幼名:大勝

法名:玄竜

旧名:安田三郎


異母兄:武田義信海野信親西保信之武田勝頼仁科盛信葛山信貞

異母姉:黄梅院見性院真理姫桃由童女菊姫松姫


甲斐安田氏継承から武田宗家滅亡まで編集

信玄の七男。幼少期に父・信玄の命で仏門へ入り玄竜と称していた。しかし信玄の死後に武田家を継いだ四兄・勝頼の命で還俗。長らく絶家していた甲斐源氏の名門安田氏を継ぎ安田三郎信清と称した。


その甲斐安田氏は武田信義の弟とも叔父ともされる安田義定を祖とする。義定は治承・寿永の内乱源範頼源義経と共に源義仲平家討伐に活躍したが初代鎌倉殿の源頼朝に疎まれ1193年に嫡子・田中義資が艶書事件を起こし斬首。義定も連座し遠江守護を解任され甲斐で謹慎。しかし、翌1194年に梶原景時加藤景廉(「遠山の金さん」のモデル遠山景元の祖先)らに攻められ自害し息子同様、さらし首にされた。ちなみに義資の子孫は粟屋を称し戦国時代になると安芸毛利家や若狭武田家の重臣になっているが、安田氏自体は歴史に埋もれてしまう。一説には西保氏を名乗った信清の三兄・信之が父の命で安田氏も継いでいたとされる。


上杉謙信死後、越後で内乱(御館の乱)が発生した際、勝頼は天正7年(1579年)に謙信の甥で養子の上杉景勝と同盟(甲越同盟)を締結。その証として菊姫(信玄の五女)は景勝と結婚し、彼の正室となる。その後、景勝が同じ養子の上杉景虎を倒し上杉家当主となるが、これらはのちに信清の人生を大きく左右することになる。


天正10年(1582年)、武田家は織田信長徳川家康北条氏政(上杉景虎の実兄)の侵攻により滅び、勝頼や勝頼の嫡子・武田信勝を始め兄の信親・盛信・信貞、叔父の武田信廉一条信龍、従兄の武田信豊ら武田一族は命を落とす。


上杉氏に仕え、米沢武田氏の祖となる編集

織田信忠森長可らによる武田狩りを逃れた信清は菊姫の縁を頼り、越後に赴き彼女の夫である景勝に仕えた。信清は景勝の義弟でもあるため、厚遇されて上杉家御一門衆筆頭になった。この時、安田から武田に復姓した。景勝が春日山から会津若松さらに米沢に転封されても同行。その後、江戸幕府から大久保長安事件関与の嫌疑を受けたこともあったが罰せられず、景勝の死後も彼の嫡男・定勝に仕え続けた。


徳川将軍家が徳川家光の時代である寛永19年3月21日(1642年4月20日)に、83歳(もしくは80歳)で他界。前後して細川忠利立花宗茂が亡くなっている。信玄の子どもたちの中では正保4年(1647年)に享年98で他界した三姉・真理姫木曾義昌の正室)に次いで長命だった。


信清の子孫も、明治維新まで上杉家に仕え続けた。


ちなみに、次兄・信親の子孫である高家武田家は途中で養子が入っているのに対し、信清を初代とする米沢武田家は(子の代で徳川家旗本になった)五兄・仁科盛信の仁科家、叔父・河窪信実の河窪家同様武田信虎の実の子孫である


関連タグ編集

戦国時代 甲越同盟

米沢藩 米沢武田家 武田家 上杉家

武田信玄 禰津御寮人里美

上杉景勝 菊姫 上杉定勝 武田勝頼

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