木曾義昌
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きそよしまさ
戦国武将で武田家臣。のちに織田信長へと離反し、旧主にして義兄・武田勝頼の滅亡の直接的原因を作った。
生没年 1540(天文9)年~?
木曾義康の嫡男として誕生。
木曾氏は南北朝時代から木曽谷一帯を治めてきた国人領主であったが、1555(弘治元)年に信濃へ侵攻した武田晴信(のちの信玄)の前に降伏を余儀なくされた。
美濃・飛騨との国境地帯を領有する木曾氏を懐柔するため、晴信は娘の真理姫を義昌に嫁がせ、親族衆とする一方で、一族や家臣から人質を取るなどの措置をとって属国化が図られ、義昌も一家臣として過ごすことになった。
その後晴信改め信玄の死後、新しい当主となった勝頼の下で新府城築城に対する過重な賦役などにより不満を募らせた義昌は、1582(天正10)年1月弟の上松義豊を織田家への人質として武田家から離反。その直後に始まった織田信長・信忠親子の甲斐侵攻戦に参加した。なおこの際に武田家へ人質として出された実母・側室・嫡男の千太郎・娘の岩姫が処刑され、真理姫も義昌と離別し木曾山中に隠棲した(真理姫は離別していない説もあり、その場合は木曾山中の隠棲は義昌の死後ということになる)。
武田滅亡後、義昌は信長より2郡を与えるとの内示を得たが直後に本能寺の変が発生、反古となった。
天正壬午の乱では当初北条氏に、次いで徳川家康に安曇・筑摩郡加増を条件に寝返ったが反故にされた。これに不満を持ったため小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)側につき徳川と戦ったが、秀吉・家康間の和睦により信濃の国人は家康の家臣となることが定められた。
1590(天正18年)、家康の関東移封により木曾氏も下総・阿知戸(現在の千葉県旭市)1万石へ移された。
没年は1595(文禄4)年、1596(慶長元)年の説がある。
家督は次男の義利が継いだものの、横暴な振る舞いが多く1600(慶長5)年に改易された。
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