プロフィール
生没年:1544年(天文13年)~1615年(慶長20年)
諱:景定→重然(しげなり)
通称:左介、織部、織部正(おりべのかみ)
官途名:従五位下織部助
戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期にかけての武将だが茶人・文化人としての活躍が著しい。
武将としての古田織部
古田氏は土岐家に仕えた家だが織田信長の美濃攻略により臣従。重然は最初細川藤孝の配下に組み込まれ使番として仕えた。信長上洛後に摂津の土豪・中川清秀の妹を娶る。のち荒木村重が信長相手に謀反を起こした時、村重配下だった清秀の織田家帰参に関わっている。その後も東播磨の別所長治・丹波の赤井直正・甲斐の武田勝頼らとの戦いに従軍。本能寺の変後、豊臣秀吉に仕え伊勢の滝川一益や越前の柴田勝家との戦いで活躍したが、賤ヶ岳の戦いで義兄の清秀が戦死したため甥の中川秀政の後見を務める。1585年(天正13年)に秀吉が関白に就いたとともに従五位下織部助に任ぜられ「織部」を称した。
関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍側に与して生き残り、徳川秀忠の茶道指南役となったが、大坂の役夏の陣で豊臣氏に内通していたとして、切腹させられた。
茶人としての古田織部
茶の湯の名人としても名をはせている。一応、若い時に父・重定から手ほどきを受けていたとされるが、本格的に茶道に打ち込みだしたのは40歳前後とされかなり遅咲きである。千利休を師事し、利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられるようになる。利休が大成させた茶道を継承しつつ、「人と違う事をしろ」という教えから、武家好みの動的で大胆かつ自由な気風の流派である「織部流」を確立した。
また、豊臣家の重臣となる大野治長とは師弟関係にあったとされており、織部の弟子として治長は茶道を奥義まで極めたとされている。
芸術家としての古田織部
茶器製作・建築・造園などにも携わり、「織部好み」と呼ばれる一大流行を生み出し、各界の著名人との人脈と影響力も持った。故意に形をひしゃげさせたり、一度完成したのをわざと壊して継ぎ合わせたりした茶碗、パズルピースのような形の皿などのような、不均衡さに美を見いだす作品が「織部好み」として様々に伝えられている。
古田織部がデザインした陶磁器は、それまで良いとされていた左右対称(シンメトリー)とは異なり左右非対称(アンシンメトリー)を大いに是とし、場合によっては使用用途の犠牲すら厭わない特徴がある。同時期の茶人である神谷宗湛の手紙にも織部の茶会に用いられた茶碗が「セト茶碗。ヒツミ候也。ヘウケモノ也」(宗湛日記)であるとされている。織部が刑死した事もあり後、小堀遠州を筆頭とする「綺麗寂び」が主流となって織部のダイナミックな陶風は姿を消したが、江戸幕府が倒れた後に北大路魯山人・川喜田半泥子らによって俄に作陶、作庭などに左右非対称性が復活した。
同時期、西洋にて抽象画などが好まれた背景もあり、こういった事象より古田織部の芸術思想は現代日本の文化を根差している象徴ともされ、人に依りては「我が国に於いて茶の湯の祖は千利休、作陶の祖は古田織部なり」とまで謳われる事がある。千利休に於いても茶碗は確かに国焼(国産の茶碗)を好んで用いたものの、形にまで踏み込む事は無かったという意図であるが、千利休が好んだ楽焼と古田織部が好んだ織部焼とでは確かに同時代にて焼かれたもとのは俄に信じられぬ作風の異なりが見て取れる。
また、陶器に絵を描き染める(絵付け)事を好んだのも織部の特徴である。
(織部)
(古備前)
(楽)
(高麗井戸)
フィクション・ゲームでの古田織部
へうげもの
主人公を務める。
織田信長の使い番・古田左介は茶の湯と物欲に魂を奪われ「武」をとるか「数奇」をとるか、出世と物欲との間で葛藤する。のち豊臣家や徳川家に仕え、千利休に茶道を学び、気に入った物を“お救いする”と称して頻繁に盗んだり、他人の弱みにつけ込んで借金を申し込むなど、図々しいくらいの発想・行動力を持つ。また名物を評するときは独特な擬音で表現する。特に気に入ると、金時殿が目を覚ますという変な癖がある。笑い方が「ゲヒヒヒ」。
信長の野望シリーズ
「武将風雲録」から登場。教養は高いが教養がない時はあまり使い道がないなど今川氏真に似ている。
関連タグ
フルタ製菓・・・CMキャラクターに。