北大路魯山人とは、日本の芸術家である。
概説
1883年(明治16年)生まれ。
京都府出身。
本名は「北大路房次郎」。
前半期は書道家、中期は料理人、晩年は陶芸家として名を馳せた、日本を代表する近代の芸術家の一人。
その多彩さと妥協を知らない美と食への探求心から、今なお多くの芸術家や趣味人を魅了してやまない。
生涯
上賀茂神社の社家の子として生まれるも母の不貞による子だったため、これを憂いた父親は房次郎の生まれる前に割腹自殺してしまう。
生まれて早々に里子に出されて生家から離縁されるも、さらに養子先でも今でいうところのネグレクトには遭うわモラハラ染みた虐待を受けるわと養家を転々とする厳しい幼少期を過ごす。
一方、そうした不遇を少しでも改善するために養子先では積極的に食事の手伝いを買って出て食い繋ぎ、これが房次郎を飽くなき「食の世界」へと誘う鍵となった。
10代後半から小遣い稼ぎに書道の懸賞へ積極的に応募し、メキメキと腕を上げて優秀賞の常連として知られていくようになる。
いつしか近在からは看板や表書きの依頼が舞い込み、「先生」と呼ばれるようになった。
そして20歳で生母の実家である東京都に移り住み、女中頭だった母の奉公先の男爵の伝手で21歳の時に「日本美術協会展」へ作品を出品して見事に褒状一等二席の栄冠に輝き、書道界にその名を轟かせた。
これに驕ることなく1年の朝鮮留学で篆刻を学ぶと活躍の場をさらに広げていく。
そして30代に入り、陶芸家や資産家などによる趣味人たちと誼を交わすようになり、この頃から徐々に陶芸の世界にも目を向け始めていく。
37歳になって「魯山人」の雅号を名乗り、友人である中村竹四郎と骨董店「大雅堂美術店」を開店すると幼少期から培ってきた料理の腕を振るい、店の作品に乗せて料理を振る舞うというパフォーマンスで知られるようになる。これを機に会員制の料亭「美食倶楽部」を設立。
やがて政財界から「金は幾らでも積む、美味いものを食わせてくれ」と魯山人の料理の腕に惚れ込む大物たちが現れ、店の会員は200名を超えるほどとなった。
大正12年、関東大震災に見舞われて「大雅堂美術店」を「星岡茶寮(セイコウサリョウ)」へと再建。
茶寮はますます盛況になり、店で仕入れる陶芸だけでは追いつかず、魯山人自身も本腰を入れて陶芸の道に進んでいくこととなった。
自ら「星岡窯(セイコウヨウ)」という窯を開き、石川県の加賀や京都から選りすぐり職人を引き抜いて彼らと創作活動を展開。昭和時代に世界恐慌に突入しようと、会員は1000人を超えて増加し、「星岡茶寮を知らぬものは日本の名士に非ず」と謳われるほどとなった。
しかし強すぎる美と食へのこだわり、放任主義でありながら強権的なやり方に経営陣から反骨心を抱かれて昭和11年に星岡茶寮を追放されてしまう。
その後は星岡窯に籠って陶芸活動に没頭し、数多くの陶芸を世に送り出す。
そして1959年(昭和34年)、肝吸虫による寄生虫性の肝硬変により76歳でこの世を去った。
人物
かなり大柄な人物だったらしく、その堂々とした佇まいと四角く眼鏡をかけた眼光鋭い容貌から見る者を意図せず威圧してしまう。
同時にこの漲る威容に表れるように食と美に関しては一切の妥協を許さない筋金入りの芸術家だった。
とかく凄まじいまでの鑑定眼を有し、美術品はおろか人間の性質さえ正確に見抜いて評する慧眼の持ち主だった。しかし歯に衣着せぬ率直な性分でもあり、身分の上下に関わらずズケズケと相手を批評する毒舌のため内外に関わらず敵を作りやすい人物でもあった。
一方で吉田茂をはじめ、その天衣無縫な性格を好意的に思ったり尊敬する著名人も決して少なくなかったそうな。
妥協を嫌う情熱的な創作家だが、それ故に気難しく激情家な一面が強い。
自分の思った通りにならないと癇癪を起こすことも珍しくなく、特に「風呂上がりにキンキンに冷やしたビールがないと当直の使用人を怒鳴りつけて辞めさせた」ことが何度もあったと伝わっている。
晩年には当時の文部省(現文部科学省)から人間国宝への認定の相談があったものの「作家は作品が永遠にものを言うのだから、勲章なんてアクセサリーはいらない」としてこれを辞退した。
なお妥協案として「くれる相手が問題だから、徽宗皇帝からならもらってもいいかも」とも言ったとされる。
徽宗帝は、かのマ・クベ大佐が『機動戦士ガンダム』内で「あれはいいものだ」とご執心でもあった『北宋の壺』等にも関わりを持つ(ただし、本人の領分は書道および絵画)希代の文化人として知られるが、平安時代の人物でありとっくの昔に亡くなっている。しかも文化人としては著名だったのは確かだが、その君主としての行いを加味すると純粋な賞賛以外のまったく別のニュアンスも浮上してくる。
非常に多芸でしかもアイデアマンであり、生涯において並みの陶芸家や書家を超える30万点とも推察される無数の作品を世に送り出した。
それだけに「魯山人作」を謳った骨董は今でも真贋問わず数多くの場所に出回っており、それが真作だった場合の価値は常人には計り知れない額となる。
料理人としても名を遺し、「魯山人風」という魯山人が愛好した料理法を用いたメニューが和食の世界にいくつか存在している。特に後述の『美味しんぼ』を中心に広がった「肉と野菜を交互に別々に食べる」スタイルの【魯山人風すき焼き】が知られる。
一方で不義の子という事実、そして家族の温もりを知らぬまま過ごした幼少期は魯山人にとって強烈なコンプレックスとして残り続けた。
生涯に六回の結婚をしたもののその全てが破綻しており、遂に最後まで『家庭』を手に入れることはできなかった。モテはしたのだが、芸術を優先させたりそもそもが金目的であったり、別の女に目移りした挙げ句に妊娠させたりと家庭人としてはダメダメな男であった。
それでも『家庭』というものに途方もない憧憬を抱いていたらしく、ラジオやテレビ、映画のホームドラマ等で描かれる家族の会話や微笑ましい団欒のシーンを見ると一人静かに肩を震わせて泣くという寂しがり屋な一面もあった。
魯山人自身はそうした孤影悄然な部分を他人に見られる事を嫌がってホームドラマを視聴する際には人払いをしていたが、視聴中の部屋から咳払いをする音が頻繁に聞こえてきた事から使用人達の間では周知の秘密となっており、彼の数少ない微笑ましい一面として親しまれていたという。
また上述のコンプレックス故か、子供に対してはわりと寛大であったそうで、近所の子供のイタズラを目の当たりにしても頭ごなしに怒ることなく、穏やかに諭していたという。
エピソード
- 上述にあるとおり、とにかく言いたい事は誰だろうと物申す性分故、魯山人の罵倒同然の酷評を食らった著名な芸術家・批評家は数え切れない程であったが、中にはかの世界的画家・ピカソも含まれており、彼の個性的な画風の作品を一目見るなり「子供の落書き」と一蹴したという。
- 反対に自分の作品に少しでもケチをつけられると我慢がならない一面もあり、阪急グループ創設者小林一三から阪急百貨店にて開いた個展に出店した自身の作品の価格を巡って諍いを起した際に即刻展覧会の中止を申し出て、それをきっかけに小林とも絶交し、終生関係が修復する事はなかった。
- ある日、スウェーデンの日本古美術の愛好家に食事に招待され、大好きな銘柄のビールを出された魯山人は感激しながら「やっぱり、ビールはこの銘柄に限る」と称賛するが、実はその食卓に出されたビールは瓶こそは魯山人の愛飲するブランドの品であったが中身は常日頃から馬鹿にしていたメーカーのビールだった。まんまと騙されてしまった魯山人は面目を潰され、それからしばらくの間、食に関しては得意の辛口批評は控えめになったという。
- 川魚の生食を好んでおり、鯉の洗いや鮎の背越しをよく食べていた。本人の著書「魯山人の美食手帖」内では、「食道楽」で知られる村井弦斎に対して「彼のあゆ知らずを物語っている」「弦斎の味覚の幼稚さを暴露したものである」と得意の毒舌を炸裂させており、その強い拘りが感じ取れる。しかし、それらの川魚は死因となった肝吸虫の第2中間宿主であった。皮肉にも、毒舌家で美食家だった彼は自らも毒を食していたという訳である(現代では調理技術の発達により寄生虫の心配は殆どない)。
- 幼少のころ医者にも見離されるような大病を患った際に何が食べたいか尋ねられると『タニシ』と答えた。「どのみち助からないから」という事で家族はタニシを食べさせたところ、瞬く間に病気は完治してしまった。そんな事があって以降、魯山人はタニシを命の恩人と勝手に信じ、頻繁に食したり弟子や使用人達に薦める程の大好物であったという。なお、このタニシが肝吸虫の寄生経路であるとされることがあるが、肝吸虫の寄生するマメタニシは食用にならず、またこの時期の肝吸虫は人への寄生能力も持たないため誤りである。
- 知人の画家夫妻、小説家と共にヨーロッパ旅行へ出かけた際、フランスの三つ星鴨料理店『トゥールダルジャン』のパリ本店を訪れて名物の鴨料理を堪能する事となった魯山人だったが「あんなことをしていちゃあ美味く食えない。食ったところで肉のカスを食うみたいなもので、カスに美味い汁をかけているに過ぎない」と鴨の焼き方にクレームをつけ、無理を言ってミディアムレアに焼いたソースのかかっていない鴨料理を持ってこさせると日本から持ってきた播州竜野の薄口醤油と粉わさびを取り出すとコップの水でわさびを溶いて卓上の酢で練り、店員達の前でこれ見がよしに食べてみせた。それを見て店員達が感心したのをいい事に、その後も食中酒のワインに「不味い」とイチャモンをつけてオーナーにワインセラーへと案内させると秘蔵してあった高級ブランデーを見抜いて開けさせるなど、やりたい放題に振る舞った。
- 幸いにもオーナーをはじめとするトゥールダルジャンの店員の皆さんは(本心は定かでないが)魯山人の美食家ぶりに好意的且つ臨機応変に対応した事でトラブルなどは起こらなかった。
- ただし、この時同席していたフランスの事情に精通した小説家の大岡昇平はこの時の魯山人の行動について「 癖のついてしまっている口で、口に合わない異国の料理にケチをつけているだけ 」と後に著作した自書にて批判している。これは魯山人のエピソードの中でも特に有名な話である。