1864年2月8日(文久4年1月1日)、現在の福岡県福岡市博多区出身。
旧制福岡中学校中退後上京、自由民権運動の壮士として活動するようになる。
その後一座を立ち上げ演劇活動を始め、風刺や政府批判を加えた『オッペケペー節』で一世を風靡した。
1894年、川上貞奴と結婚。
1899年にはアメリカ興行を行い、この際妻の貞奴が女優として舞台に出た(日本における近代的意味での女優の始まりとなる)。1900年にはパリ万博での公演を果たした。
1911年11月11日、舞台中に倒れ死去。
いわゆる「新派」劇(←→「旧劇=歌舞伎」)の創始者である。
「明治東亰恋伽」における川上音二郎
川上音二郎(明治東亰恋伽)を参照。
なお、同作品では自らが女装して芸者をしつつ一座の運営資金を稼いでいる。