概要
恐慌とは、好景気・不景気といった景気の波の過程のうち、好況局面で突如発生する深刻な景気後退が全世界で発生している状況である。少なくとも過去に3回は発生しており、単に世界恐慌という場合は1929年のウォール街での株価暴落を引き金にしたものを指す。
1929年の恐慌
この恐慌はThe Great Depressionと英語では呼ばれる。アメリカの株式暴落、その暴落および銀行の破綻に対し「現金の供給減少」という誤った措置を行ったために発生したといわれている。またこの恐慌が原因でブロック経済が発達し第二次世界大戦が発生したともいわれる。
発生以前
第一次世界大戦の傷が浅かったアメリカは痛手を負ったヨーロッパへの輸出や今までヨーロッパが行っていた植民地への輸出が好調であった。しかし農産物の生産過剰、ヨーロッパ諸国が戦争の傷から復興したこと、さらにソ連の世界市場からの撤退など、不景気の芽はすでに芽生えていた。
しかし農業、石炭、鉄道部門などが不調であるにもかかわらずなぜか株式市場は好調を維持しており、産業に対して活発な投資が行われていた。
1924年からは投機目的の投資が大量に株式に流れ込み、5年間で株式の平均価格は5倍になり、いわゆるバブルが発生していた。そして大多数の人間は「このまま株式は上がり続ける」と思い込んでしまった。
株価暴落
しかし1929年10月24日、ゼネラルモーターズ株の下落をきっかけに株が大量に売られ、1289万4650株が売りに出されるという状況になった(暗黒の木曜日)。この日および金曜日にはまだアメリカの銀行の介入もあったが、週末にこの暴落が新聞等により地方にも知らされ、月曜日には株は前日比13%下落という大暴落、次の日にはさらに暴落し午前中のみで株式市場は閉鎖、埋め合わせるためにさらに土地や債権なども売られるという事態(悲劇の火曜日)に陥る。
また、政府は経済を市場に任せるという考えからほとんど何もしなかったため、事態を悪化させた。それまでの好景気により支えられてきた経済は当然崩壊、そしてこの影響は世界に波及することになった。
恐慌発生当時のアメリカ合衆国大統領、ハーバート・クラーク・フーバーは当初古典派経済学の考えにより何ら対策をとらなかったものの、ヨーロッパへの波及を見て、ようやく重い腰を上げたもののすでに手遅れであった。
そして1933年、大統領はフランクリン・デラノ・ルーズベルトに変わり、ニューディール政策、すなわち政府が市場経済に積極的に関与し、公共事業や農作物の生産調整などを行い景気を安定させる政策、また自由貿易を行い、一時は立て直す(その後財政均衡政策により不況となる)。最終的な景気回復は第二次世界大戦の軍需を待つこととなった。
他国への波及
このアメリカの不景気が世界に波及したのは1931年、オーストリアの銀行の破綻であった。これはアメリカ輸出がうまくいかなくなったこと、フランスの締め付け、によることおよび政府の救済失敗によるものであった。フランスの締め付けや資本流出は同様にドイツに波及し、第一次世界大戦の賠償金の影響などもあり経済が破たん、ナチスの台頭を許す原因ともなった。
また、フランスやイギリスもその影響から逃れることはできなかった。当時の貨幣の裏付けであった金が流出したため、金との交換を停止する(金本位制の停止)羽目に陥り、結果インフレが発生した。
当時アメリカへの輸出がかなりのウエイトを占めていた日本も不景気に陥り、また天災なども相まって国内はがたがたとなっていた。この期間に関東大震災や国内の政治不安などの影響により延び延びになっていた金本位制への復帰を行い、結果金が流出した。そしてその結果、満州事変に始まる十五年戦争への道を突き進んでいくことになる。
そのほか
- ソビエト連邦は世界経済から切り離していたため(経済の数値上)ほとんど影響を受けなかった。そのため共産主義に希望的な経済体制を夢見る人間が増えたとされる。
- イタリアは経済の混乱が続いていたため、結果的にこの恐慌の影響を受けなかったとされる。
- ジョン・F・ケネディの父親はこの恐慌の影響を回避するため株を売却したという逸話がある。理由は「靴磨きの少年が株の話をしていた」ことであったとされる。
世界恐慌に該当する物
そのほか、こう呼ばれるものとしては
- 1857年恐慌(クリミア戦争終結による穀物価格の下落による)
- 1873年-1896年大不況(普仏戦争や南北戦争の後処理によるもの、直接的にはオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンの株価暴落およびアメリカの鉄道会社の破たんによる)
- 世界金融危機(アメリカの同時多発テロ後の低金利を引き金としたサブプライムローン問題による景気退潮)
- 2020年コロナショック(COVID-19のパンデミック)
などが存在する。