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葛山信貞

かつらやまのぶさだ

武田信玄の六男。葛山氏元の養子となるが甲州崩れの時に自害した。
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プロフィール編集

生没:?~天正10年(1582年)

諱:義久→信貞

通称:武田六郎、葛山十郎


父:武田信玄

母:油川夫人琴姫)。

同母兄:仁科盛信

同母姉妹:菊姫松姫真理姫も同母姉説がある)。

異母兄:武田義信海野信親西保信之武田勝頼

異母弟・武田信清


概要編集

信玄の六男。生年は不明だが盛信(1555年生)と信清(1560年生)の中間である1556年~1559年頃と思われる。最初の諱は義久だったが、のちに信貞と改名した。

葛山氏元の娘・おふちと結婚し、氏元の婿養子になり通称も六郎から十郎となる。

天正10年(1582年)、織田信長徳川家康北条氏政により甲州征伐が開始され勝頼は自害し武田家は滅亡(甲州崩れ)。

信貞もまた古府中(甲府)の甲斐善光寺において自害し、葛山家も滅亡した。


遺児に御宿貞友葛山信哲斎)がいる。甲州崩れ後、武田狩りを逃れるために名字を父の後見人だった御宿友綱(元は葛山一族で氏元の甥)の御宿姓に変え、名は信貞と友綱から一字ずつ取ったと思われる。甲州崩れから33年経った1615年、大坂の陣において豊臣秀頼の元で戦い敗れるも豊臣残党狩りを生き延び、のち福岡藩主・黒田長政の嫡子・忠之(黒田騒動で有名)に仕えたという。また仏門に入り葛山姓に復し信哲斎と改名して80歳まで生きたともされる。


貞友と共に大坂城に入城し討死した友綱の長男・政友(勘兵衛)には信貞の子という伝説がある。しかし1567年生まれとされる政友と信貞は年齢差が親子というには無理があり諱が似ている貞友と混同されたのでは思われる。余談も余談だが友綱の次男・政綱は高田藩主・松平忠輝(徳川家康の六男)に仕え大坂の陣では越後勢の一員として兄とは敵味方になっている。


関連タグ編集

武田信玄 油川夫人琴姫) 葛山氏元

おふち 御宿貞友葛山信哲斎

仁科盛信 菊姫 松姫

武田義信 武田勝頼

御宿政友

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