概要
かつて武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで5回争った。しかし信玄の死後、天正3(1575)年に長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に惨敗した信玄の後継者・武田勝頼(信玄の四男)は信長を警戒し始めていた謙信と織田信長による軍事的脅威に対抗するために和睦する(甲越和与)。それ以降両者の関係は友好になり、共同で第三次信長包囲網を毛利輝元や本願寺顕如たちと共に結成し、謙信は手取川の戦いで柴田勝家(織田軍の武将)が率いる織田軍を撃破した。
謙信の死後、上杉家では御館の乱が勃発し謙信の養子同士の上杉景勝(謙信の甥で長尾政景の次男)と上杉景虎(北条氏康の七男)が争う。その最中の天正7(1579)年に景勝は勝頼と同盟を締結した。これが甲越同盟である。
同盟の締結に伴い、勝頼の異母妹・菊姫(武田信玄の五女)は景勝に嫁ぎ、彼の正室となった。
その後、景勝は乱を制したが景虎支援を(結果的に)反故にされたことで北条氏政は勝頼に対して甲相同盟の手切れを宣言し、徳川や織田と同盟を結んだ。
武田滅亡、上杉窮地
とは言え対北条戦については長篠で戦死した真田信綱の後を継いだ弟・昌幸の上野方面での活躍、さらに佐竹義重と再度締結した甲佐同盟もありむしろ優位に進めた。この頃、畿内では織田家の対本願寺戦の主将・原田直政が三津寺の戦いで雑賀衆相手に戦死したのを皮切りに第一次木津川口の戦いで毛利水軍に惨敗し、大和の松永久秀も筒井順慶との確執などが高じて信長に再び謀反を起こした。北陸方面も謙信に加賀まで抜かれ勝家の本拠・越前まで迫られ、さらに山陽山陰方面でも東播磨の別所長治、因幡の山名祐豊が離反したことで羽柴秀吉・秀長がこれらの火消しに終われていたところへ摂津の荒木村重が反乱し黒田官兵衛が村重の捕虜になり竹中半兵衛までも陣没し「両兵衛」不在となり苦境に立たされた。信長は畿内や山陽が手一杯で武田に構う余裕もなかったため勝頼も織田・徳川相手に活発な行動を行っていた。しかし信長が別所・松永・荒木らの反乱を鎮定し本願寺と和睦、山陽方面では備前の宇喜多直家が秀吉の調略に応じ、山陰方面でも鳥取城を陥落させ因幡を平定し毛利を封じ込め、さらに謙信の死で勝家が反転攻勢に転じたことなどもあり第三次信長包囲網が崩壊してしまう。
そして、天正9(1581)年に東遠江の要衝・高天神城に家康自ら率いる徳川勢が攻勢を掛けたが、勝頼は後詰め救援が出来ず落城を許し潮目が一気に悪くなった。
一方、上杉家でも同時期に北越後で重臣・新発田重家が反乱を起こし、これを信長に羽前の伊達輝宗(政宗の父)や会津の蘆名盛隆が支援。さらに勝家率いる北陸方面軍も加賀や能登を抜き越中から迫りつつあり武田・上杉は織田・徳川・北条・伊達・蘆名・新発田による反武田・上杉連合によって包囲網を敷かれていた。
そして、天正10(1582)年、勝頼との仲が悪化していた木曾谷の木曾義昌が織田に寝返ったことをきっかけに信長は徳川・北条軍と共に武田家に対する大攻勢を開始した。
この時、景勝は勝頼を助けるために勝頼に援軍を送ったものの、勝頼は息子で武田家当主の信勝や継室の北条夫人と共に天目山にて自害。ここに武田信義から始まる名門甲斐源氏武田家の本家は滅亡した。
ちなみに、このとき唯一武田家を助けたのは上杉家であった。
また、信玄の娘婿で最後まで勝頼を助けたのは景勝だけであった。
その後
武田家滅亡後、信長は上杉家に対して大攻勢を開始し北陸の柴田勢の他に信濃の森長可や上野の滝川一益も南越後へ侵入。柴田・森・滝川・新発田相手に一度に四正面作戦は取れず景勝は魚津城を見殺しにせざるを得なくなったが、落城前日に信長・信忠が本能寺の変で横死していたことで柴田、森や滝川の軍勢が撤退したこともあり九死に一生を得た。
この後、信玄の七男にして菊姫の異母弟である武田信清が上杉家に仕え、御一門衆筆頭となった。
その後、景勝は織田家から独立した旧武田家臣・真田昌幸と連携して徳川や北条の軍事的脅威を退ける。
のちに景勝は豊臣秀吉に臣従し新発田の乱を平定。秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いでは西軍に属すが敗北。その後は徳川家康に臣従し、上杉家は江戸時代において大名として存続した。
景勝と菊姫の夫婦仲は良かったと言われている。その証拠として、武田家が滅亡しても景勝は菊姫を正室のままにしていた(当時は、実家が滅亡したときに実子がいない場合は正室は側室に格下げされるのが常識だったが、景勝はそれをしなかった)。菊姫は慶長9年(1604年)2月に数え47歳で死去。普段は感情を表に出さない景勝がかなり悲歎したことからでも二人の仲の良さが窺える。両者の間に実子は産まれず景勝の死後、側室の桂岩院が産んだ唯一の子・上杉定勝が米沢上杉家を継いだ。信清は定勝にも仕え信清の死後も米沢武田家は代々上杉家に仕え続けた。
こうして、信玄と謙信という二人の名将の子孫たちは、お互いを助け合う関係になったのだ。
現在でも、武田家と上杉家の子孫の間で友好的な交流が続いている。