背景
天正年間以前、越後の上杉氏と尾張の織田氏は友好関係にあり、元亀年間には上杉謙信と武田信玄との間での和睦を織田信長が仲介、さらに信玄が信長と敵対関係に転ずると、武田氏を共通の敵とみなす形で上杉・織田間での同盟が締結されるに至った。
しかしこの両者の同盟は、武田攻めへの見解の相違から早くも隙間風を生じさせることとなる。とりわけ、天正2年(1574年)9月に計画されていたとされる上杉・織田による武田攻めが、長島一向一揆への対応により信長がそれを反故にする格好となった事は、同時期の関宿城救援の失敗で上杉氏の関東への経略が事実上頓挫したのと合わせて、信長に対する謙信の心証を少なからず害したと見られている。
加えて、天正年間に入ってから北陸方面において、上杉氏と織田氏が領土を接する事となったのも、両者間の関係にさらなる悪影響を及ぼす事となった。
元亀年間の末期から天正年間に入る頃、謙信は相次ぐ一向一揆勢への蜂起に対応すべく、越中方面への経略に本腰を入れる事となり、天正3年(1575年)頃には同国を概ね平定するに至っている。一方で当時の信長も、越前の一向一揆勢を殲滅しつつさらに加賀にまで勢力を広げつつあり、加賀の一向一揆勢が上杉氏を頼った事で、同国では明確に上杉と織田の勢力圏が接する形となった。さらに能登においても同国守護の畠山氏家中で、上杉に付くか織田に付くかで意見が二分されるなど、こうした一連の動きは上杉・織田間の緊張を急速に生じさせる事となった。
一方、信長との対立の末に京を追われるに至った室町将軍・足利義昭は、紆余曲折を経て毛利領へと亡命し、再起を図るべく各地の大名に信長追討令を出し助勢を求めているが、その中には他ならぬ上杉氏も含まれていた。
実際に天正4年(1576年)には義昭の仲介により、上杉と武田、そして北条の三者間での和睦の話が持ち上がり、謙信と北条氏政との和睦こそ実現には至らなかったものの、一方で武田勝頼との和睦は成立、さらに本願寺顕如とも和睦が結ばれた事で、それまで謙信を悩ませていた一向一揆勢との敵対関係にも終止符が打たれる格好となった。
これらの情勢の変化を受け、謙信は信長との同盟を破棄して信長包囲網の一翼に加わる事を決し、同じく包囲網に加わっていた毛利輝元からの要請もあって上洛へと踏み切った。その上洛に向けた動きの一環として、謙信は天正4年秋に神保氏を降して越中を完全に手中に収め、さらに能登へと本格的に進出する構えを見せており、ここに謙信と信長との直接的な衝突は避けがたいものとなったのである。
合戦の推移
七尾城の戦い
前述の通り、畠山家中では長続連を始めとする親織田方の家臣と、遊佐続光ら親上杉方の家臣との間で激しい見解の相違があったが、評議の末に上杉軍への徹底抗戦を決し、対する謙信も天正4年11月、当時の能登守護・畠山春王丸の居城である七尾城の包囲に着手するに至る。
この七尾城攻めはその後、関東の諸将からの救援要請もあって一旦中断となり、その間に勢いを吹き返した畠山勢によって、上杉方に降った能登の諸城も落とされるなど上杉不利な情勢に傾くが、翌天正5年(1577年)閏7月に入ると謙信は再度能登へと進軍、七尾城も再び包囲されるに至った。
その七尾城包囲戦の最中、疫病の蔓延により当主・春王丸が病死するという事態が発生。城中に厭戦の機運が漂う中、長続連は信長に援軍を要請するなどなおも抗戦の構えを解かず、信長もこれに応えて柴田勝家らに畠山救援を命じた。
そんな長続連の姿勢を前に、謙信は力攻めでなく調略による落城へと方針を転換。そして謙信からの誘いに乗る形で、かねてより続連と対立していた遊佐続光や温井景隆が謙信と内通に及び、続連とその一族は討ち取られ七尾城も陥落。時に天正4年9月、勝家率いる軍勢の到着を待たずして、七尾城の戦いは上杉軍が制する結果となった。
手取川の戦い
この時、柴田勝家率いる3万もの織田軍には、未だ七尾城陥落の報せは届いておらず、また進軍の途上では総大将を務める勝家との意見の相違から、羽柴秀吉が軍勢を引き上げるという事態が発生。このように先行きに怪しさが漂う中、加賀の手取川を渡ったところでようやく、勝家ら諸将も七尾城陥落の報に接することなった。
一方、対する上杉方は七尾城陥落の余勢を駆って末森城も攻略していたが、織田軍の接近を知ると謙信自ら七尾城を出て、手取川に程近い松任城に入った。これを知った勝家は、直ちに軍勢の撤退に踏み切ったが時既に遅く、謙信直属の8000もの上杉軍から手痛い追撃を受ける羽目になった。
この追撃により、織田軍は1000もの戦死傷者を出したに留まらず、手取川の増水によって多数の溺死者を出すなど、惨憺たる大敗を喫したのであった。そして手取川で織田軍を撃破した謙信は、その余勢を駆って奥能登の松波城を陥落させ(松波城の戦い)、能登のほぼ全域を平定したのである。
この合戦で、上杉軍の猛攻に織田軍が手も足も出なかったことを詠った
「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」
という落首が残されている。
織田軍の有力武将の戦死者一覧
など
その後
上杉軍の大勝は、北陸方面における織田方の勢力伸長を挫くのみならず、松永久秀の信長からの離反をも引き起こし、さらに上杉氏と同盟関係にあった越前一向一揆も再起するなど、一時的にではあるが信長包囲網を勢い付かせる事となる・・・のだが、その勢いに歯止めをかけたのもまた、他でもない謙信その人であった。
12月に春日山城へと戻った謙信は、その年の暮れには早くも次の遠征に向けた準備を本格化させており、翌天正6年(1578年)には雪解けを待って再度の遠征に踏み切る予定であった。ところがその矢先の3月、春日山城にて病に倒れた謙信はそれから間もなく死去。これにより予定されていた遠征も未遂に終わったのみならず、謙信死後の上杉家中ではその後継を巡って内紛が勃発(御館の乱)。最早上洛どころの話ではなくなってしまったのである。
そしてこの上杉家中の内紛は、一時は苦境にあった信長の勢いを盛り返させるきっかけの一つとなった。信長包囲網の瓦解によって後背を脅かされる恐れのなくなった北陸方面軍により、上杉氏は天正8年(1580年)にまず加賀を失い、翌天正9年(1581年)には柴田勝家の与力であった前田利家、それに長連龍(長続連の遺児)によって七尾城が陥落、手取川での勝利により手中に収めた能登までも奪われる格好となった。
織田による攻勢はその後も留まることを知らず、やがて魚津城の戦いにおいて越中をも失陥する寸前にまで追い込まれることとなる・・・。
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