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金森長近

かなもりながちか

戦国時代の武将。織田信秀・信長父子らに仕えた。のち飛騨高山藩及び美濃上有知藩初代藩主となる。
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プロフィール編集

生没年:1524(大永4)年~1608(慶長13)年

通称:五郎八

諱:可近(ありちか)→長近

号:法印素玄

官位:正四位下、兵部卿、飛騨守

主君:織田信秀織田信長柴田勝家豊臣秀吉豊臣秀頼徳川家康徳川秀忠


生涯編集

織田家に仕官するまで編集

金森氏は明智光秀を輩出した明智氏と同様、美濃源氏・土岐氏の支流。長近の父・大畑定近は土岐頼武・頼芸兄弟の権力争いで頼武方に付いたが、敗北し美濃国を出奔。近江国野洲郡金森(滋賀県守山市)に移住したのが金森家の始まりとされる。


可近は定近の次男として生まれ、長じてから近江を出て尾張国の戦国大名・織田信秀に仕えた。信秀死後は続けて嫡男の信長に仕え(ちなみに信長より10歳上)、のち信長の親衛隊である「赤母衣衆」の一員となった。

1575(天正3)年における武田勝頼との長篠の戦いでは、徳川家の酒井忠次と共に、武田軍の後背を襲う別動隊の大将として出撃。長篠城を救援し、武田軍の後背を脅かすことに成功し、織田・徳川連合軍の優位を決定づけた。この時、武田の後方抑え部隊にいた河窪信実(信玄の異母弟)を討ち取る戦功をあげ、「長」の一字を下賜され諱を長近と改めた。

同年、柴田勝家の麾下として越前一向一揆戦に参加。戦功によりかつて朝倉景鏡の本拠地だった越前大野3万石を与えられ城持ち大名となった。

以降は、勝家の北陸方面軍に与力として上杉謙信景勝との戦いに参加する一方、1582(天正10)年の甲州征伐では、飛騨口の大将として参加するなど活躍した。


本能寺の変後編集

同年の本能寺の変で信長・信忠父子の死によって、織田家中が勝家と羽柴秀吉の派閥によって分裂してからも勝家派に属したが、賤ヶ岳の戦い前田利家らと共に秀吉に降っている。

1585(天正13)年、越中佐々成政討伐の際に飛騨の姉小路頼綱討伐を命じられ、その戦功として飛騨1国3万8700石を与えられる。又、信長の家臣では最古参の生き残りでもあったため、同じく信長に仕えた秀吉から御伽衆としても召し出され、昔馴染みとして身辺での話し相手になっていたようである。


秀吉の死後は家康に接近。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは当時76歳ながら東軍に加わり本戦に参加。その功で西軍に味方した甥(長近の姉妹の息子)の佐藤方政が領有していた美濃国上有知(こうずち、岐阜県美濃市)を与えられた。長近はこれを機に家督と高山藩主の座を養嗣子の可重に譲り、自身は高山から上有知に移った。そして上有知藩初代藩主として上有知湊を開き城下町の建設にも尽力した。


慶長13年(1608年)8月、84歳で没。晩年まで壮健そのものだったようで、老いた秀吉が湯治をする時は十歳以上も年上の長近が介添えとして秀吉を背負って入浴していたり、80代で子が出来たりしている。


人物編集

  • 武芸に優れる一方、茶の湯や蹴鞠にも長じた文化人でもあった。特に茶の湯に関しては千利休の教えを受け、利休が秀吉の勘気を被り切腹させられた後は、嫡男の千道安を飛騨に匿っている。
  • 越前や飛騨の「小京都」と言われる大野市高山市の町並みは長近が作ったものである。
  • 長近が開いた上有知湊は長良川の水運の要衝となり、明治時代末期に美濃電気軌道(のちの名岐鉄道。現在の名古屋鉄道の母体の一つ)が電車線(のちの名鉄美濃町線、2005年廃線)を敷設するまで栄え、うだつの残る町並みは今日に伝わっている。

子孫編集

前述のように非常に長寿で頑健な身体の持ち主で、大名にまで出世できた身(=側室も多く持てる立場)であったが、その割には生涯でもうけた子供の数はあまり多くはなく、確認できるのは三男一女の4人のみである(赤母衣衆の同僚で共に大名にまでなった前田利家が子沢山だったのとは対照的)。更に長男に先立たれた後は実子や娘婿、自身の兄弟やその子孫等が生きているにも拘らず、近親者でも直接の縁戚者でもない同僚の長屋景重の子である可重を養嗣子とするなど、長近は自身の血脈にはあまり執着が無い人物だった事が垣間見える。


  • 長男:金森長則…織田信忠の近侍であり将来を嘱望されていた身だったが信忠と共に二条新御所で討死した。長近にとって主君と嫡男を同時に失った事はかなり堪えたらしく、以降、剃髪して兵部卿法印素玄を号する半僧半俗の身になった。
  • 次男:金森長光…関ヶ原戦後の慶長10年(1605年)、長近が81歳(数え歳で82歳)の時に生誕。後述のように実は三男なのだが次男として扱われている。長近没後、2代目上有知藩主となる。慶長16年(1611年)、7歳(数え歳。実年齢6歳)で病没。上有知藩は無嗣改易処分とされ金森家は上有知の地を失った。
  • 養子:金森可重…美濃板取城主・長屋景重の子。初名は喜蔵。長則死後、正式に長近の養嗣子となり2代目高山藩主となる。養父同様、茶の湯に優れ千道安の教えを受けた。大坂夏の陣終結後に逝去。三男の重頼が家督を相続し3代目高山藩主になる(重頼が三男でありながら家を継いだのは、後述のように長男の重近が廃嫡になった結果であるが、実は重頼が後述の伊東治明の実子だったから、という異説もある)。
  • 養孫:金森重近…宗和の号で知られる。可重の長男。大坂冬の陣に徳川方で参戦する父や弟たちを批判したため即廃嫡され伏見に隠棲した。養祖父や父の茶の湯の才を受け継ぎ宗和流茶道の開祖となる。
  • 庶子:伊東治明…長男の長則の次に産まれていたため事実上は次男なのだが、秀吉の家臣である伊東信直のもとに養子へ出されており、次男としては扱われていない。家康・秀忠父子に旗本として仕えていたが同僚の別所孫次郎(別所長治の一族)と諍いを起こし、別所の家臣に斬殺された。他家(園部藩主・小出家)に嫁いでいた娘はいたが嫡子はなく、私闘を起こした末の最期だった事もあって、家はそのまま改易となった。
  • 外孫:肥田忠朝…美濃米田城主・肥田忠政(信長の美濃侵攻初期から織田家に仕え活躍した武将だが、本能寺の変の後、森長可に攻撃されて領土を奪われた)と忠政に嫁いだ長近の娘との子。父を亡くした後は祖父の長近が養育。成長後に長近の仲介で家康に謁見、徳川将軍家に仕える旗本となった。子孫は分家して尾張徳川家にも仕えている。


関連タグ編集

戦国時代 中部勢

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