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魚津城の戦い

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うおづじょうのたたかい

魚津城の戦いとは、日本の合戦の一つ。越中の重要拠点の一つであった魚津城を巡り、これを抑えていた上杉氏と織田氏との間で繰り広げられた戦いで、合戦自体は織田方の勝利に終わったものの魚津城の支配はごく短期間に留まった。

背景

天正年間に入り、上杉謙信織田信長との間で北陸を巡る抗争が勃発すると、天正5年(1577年)に織田氏重臣・柴田勝家率いる織田軍を手取川の戦いにて撃破するなど、諸戦においては上杉が北陸方面における優位を示した。

しかしそれも束の間の翌天正6年(1578年)早春、再度の遠征を目前に謙信は病に倒れ急死。このことは単に上杉氏による軍事行動の停滞のみならず、家中を二分する内乱(御館の乱)を招き、織田氏への対応に後れを取る結果ともなった。2年余りに亘る内乱は当事者の一方である上杉景勝が制するも、この好機を信長が見逃すはずもなかった。

織田氏による北陸への再侵攻は、既に謙信が没して半年ほど後の天正6年秋より始まっている。この当時上杉氏の支配下に収まっていた越中(現在の富山県)であったが、信長は配下の斎藤利治斎藤道三の末子)、それに当地を追われていた神保長住神保長職の子)らによる軍勢を派遣。利治らは飛騨を経て越中入りを果たすと、月岡野の戦い河田長親ら率いる上杉軍を打ち破り、越中中部における上杉氏の優位を覆して越後加賀能登を分断するに至った。

もっとも、これをもって織田氏と上杉氏の力関係が即座に逆転した訳でもない。越中侵攻はその後、厳冬への警戒や荒木村重らの離反などもあって中途に終わり、その間上杉氏に反攻のための猶予を与える結果ともなったからである。そして御館の乱の最中、上杉景勝は既に信長包囲網の構築を通じて和睦(甲越和与)を結んでいた甲斐武田氏との連携を強化すべく、上杉氏の支配下にあった東上野の割譲と、勝頼の異母妹に当たる菊姫の景勝への輿入れを条件に軍事同盟を締結(甲越同盟)、信長との再度の対決に備えた。

が、この後北陸を巡る情勢は上杉氏に不利な方向へと傾いていく。その一つは、信長と石山本願寺との間に講和が結ばれたことに伴う、北陸方面軍の再度の活発化である。これにより第三次信長包囲網が完全な瓦解を迎えたことで、後背の脅威が排除された格好となった北陸方面軍は、天正8年(1580年)にまず加賀の一向一揆を制圧して同国を平定、これにより能登・越中も再び織田氏による脅威に曝されることとなった。

さらに同年、上杉家臣の新発田重家による反乱が勃発。伊達蘆名といった東北の諸勢力の支援を受けた重家がさらに信長とも組んだことで、景勝は北進しつつある織田軍だけでなく、新発田の反乱軍に対する両面作戦を強いられる格好となった。

翌天正9年(1581年)に入ると、柴田勝家の与力として北陸方面軍に従軍していた武将のうち、前田利家が能登に侵攻して七尾城を落とし、手取川での雪辱を果たして当地を再平定した。一方で越中には佐々成政が入り、先の越中攻めの後も当地で上杉氏への抵抗を続けていた神保長住を指揮下に加えるとそのまま越中の平定に着手。表向き織田の傘下にありながら上杉とも内通していた当地の武将らも粛清され、着々と越中における織田氏の基盤が構築されていくこととなる。

対する景勝も全くの無策であった訳ではなく、御館の乱後に織田へ寝返った上杉景直椎名小四郎)を没落させるなど挽回攻勢に出ている他、かつての神保氏旧臣で上杉氏の傘下にあった小島職鎮らに富山城を急襲させ、長住を幽閉に追い込んでもいる。もっとも後者については、程なく柴田勝家率いる織田軍によって富山城を奪還されてもいる。

この富山城急襲とほぼ同時期の天正10年(1582年)春、上杉と合同して越中へ出陣するはずであった甲斐武田氏は、織田・徳川北条による侵攻を受け窮地に陥った。景勝も同盟を重んじて武田への救援に当たった(先の富山城急襲もその一環とされる)が、その甲斐もなく武田勝頼らは自刃、ここに武田氏という味方も失われることとなった。

武田氏の滅亡により、その旧領の大半は織田氏の手中に収まり、景勝は織田北陸方面軍・新発田の反乱軍に加えて、織田軍による甲信方面からの攻勢による三方からの包囲に遭う格好となった。そのような状況の中で繰り広げられたのが、越中における対織田戦の最前線・魚津城を巡る戦いであったのである。

合戦の推移

魚津城は、現在の富山県魚津市にあった拠点の一つで、近隣の松倉城の支城に当たる。

建武年間、南北朝動乱期に差し掛かった頃に築城され、長らく守護代であった椎名氏によって治められていたが、戦国期に入って椎名康胤が上杉氏と敵対し追討を受けると、永禄年間の末期に前出の河田長親が城代として入り、越中における上杉氏の重要拠点の一つとして位置付けられていた。

柴田勝家を大将に、勝家の与力である佐々成政・前田利家・佐久間盛政に飛騨の内ヶ島氏理らからなる北陸方面軍による魚津城への攻囲は、既に天正10年3月頃より始まっている。同時期に発生した富山城急襲への対応などもあって一旦の中断こそあったものの、4万もの北陸方面軍による攻囲に対して城に籠もる上杉軍は1/10足らずの3800と、その劣勢は火を見るよりも明らかであった。

魚津城の陥落は、そのまま親不知を越えて越後への侵攻を許すことも意味しており、景勝としても是が非でも食い止めねばならないものであったが、前述の通り信濃や上野からの織田軍の脅威、それに新発田重家の上杉領への侵攻姿勢もあって、自ら魚津城への救援に赴くこともままならない状態にあった。

このため、景勝は当初家臣の斎藤朝信上条政繁、それに能登の諸将を救援のために派遣し、自身も5月に入ってようやく軍勢を率いて春日山城を出立、5月下旬には魚津城近隣の天神山城に入った。

しかしその間、魚津城は北陸方面軍によって二の丸まで占拠され、景勝も迂闊には戦を仕掛けられない状況にあった。さらに景勝の留守である隙を突き、上野からは滝川一益信濃からは森長可がそれぞれ越後侵攻の構えを見せたため、景勝はこれらへの対応のため着陣から10日足らずで撤退を余儀なくされた。

景勝による後詰が頓挫した後も、城に籠もっていた上杉軍は1週間に亘って決死の籠城戦を展開したが、衆寡敵せず6月3日に魚津城は陥落。城中にいた上杉軍の13人の武将(魚津在城十三将)たちは、自分たちの耳に穴を開け、それぞれの名前を書いた木札を全員で結んで自害した。

魚津在城十三将一覧

この中で吉江宗信の子が景資(同一人物説あり)で寺嶋長資と中条景泰は景資の長男と次男に当たる。

その後の経過

こうして織田氏の勝利に終わった魚津城の戦いであったが、彼らがその勝利を喜ぶ暇はなかった。皮肉なことに魚津城陥落の前日、勝家らの主である織田信長は既に横死していたからである。

程なくその報せに接した北陸方面軍は、畿内へ戻るべく魚津城からも撤退、空城となった魚津城には上杉家臣・須田満親らが入り、越中東部も再度上杉氏の元へ戻った。もっともそれもわずかの期間のことでしかなく、清洲会議を経て佐々成政に越中が安堵されると、その成政の攻勢に遭って満親らも魚津城から退去を余儀なくされている。

賤ヶ岳の戦い後、成政が羽柴秀吉と敵対すると、秀吉の軍門に下った前田利家と、やはり秀吉と誼を通じた上杉景勝の挟撃により成政は没落(富山の役)。以降、魚津城は文禄年間までは上杉傘下の越中衆の管理下に置かれ、文禄4年(1595年)に前田利長に新川郡が加増されると、前田家臣の青山吉次が城代を任された。以降、前田利常の代に幕府が発令した元和の一国一城令で廃城となるまで前田家の治下に置かれた。

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