高松城の水攻め
たかまつじょうのみずぜめ
毛利元就の時代には織田信長に対して融和的な政策を採っていた中国の雄、毛利氏であるが毛利輝元の代になって自領の備前に転がり込んできた足利義昭の影響もあり、石山合戦の石山本願寺救援に乗り出した事から織田家と事を構える事と相成り、しかし播磨を天正六年に攻略され、因幡に至っては僅か四ヶ月で防衛拠点の鳥取城が落城するなど見る間に戦線を西へと後退させられていった輝元は、自領でも有数の要害として名高い備前と備中の国境に存在する備中高松城を中心にした戦線を構築し、西進作戦を指揮する羽柴秀吉を迎撃する。
備中高松城が拠点を構える備中国国境一帯は境目七城と呼び習わされる程に堅固な防衛ラインを構築し、殊に東から北を険峻な山で囲まれ西には川(現岡山県の足守川)、僅かに開けた南側も湿地帯で沼に足を取られ、克てて加えて備中高松城の常備兵力は五千名と極めて多く、堅城の名を欲しいがままにしていた(当時でも珍しい平城の防衛拠点でもあった)。秀吉も天正十年四月、備中高松城に二度、三万の兵で以て強行突破を試みているが二度とも手痛い敗退を喫している。加えて後方には毛利輝元が率いる四万の後詰めが来援しているとの情報を掴み、秀吉も織田信長に後詰めを要請する。
織田信長は是を了承し丹波国を平定した明智光秀の軍勢を差し向け、自身も自ら出兵すると約束したが、逆に一刻も早い備中高松城の攻略を命じられ、焦燥に駆られる所を黒田孝高の献策から、湿地帯の低地である利を逆手にとって水攻めを行う事に決定する。
羽柴秀吉は早速、築堤の普請奉行を蜂須賀正勝に任命し、門前村(現JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(現石井山南麓)まで東南約四キロメートル、高さ8メートル、底部24メートルにも及ぶ頑強な堤防を築き(※堤防の大きさについては諸説有り)、足守川の水を備中高松城へと流し込む事に決定。人足には法外な報酬を支払い五月八日の着工から僅か十二日で上記の巨大な堤防が完成する(堤防に用いる土砂一俵を銭百文と米一升に交換したという)。
折しも長梅雨によって瞬く間に水位が上がった備中高松城は完全に湖面へと沈んだ「浮き城」へと変貌し城内へも川の水が浸水、伝令一つを行うにも小舟を出さねばならぬ有様となる。毛利輝元も五月二十一日に後方の猿掛城へと兵一万で着陣、岩崎山(庚申山)に吉川元春が一万で着陣、その南方の日差山に小早川隆景が兵二万で着陣した。併し乍ら既に堤防は完成し、二百ヘクタールの湖に沈んだ備中高松城を救援する手立てが無く、羽柴秀吉の本隊を襲撃しようにも後方から明智光秀、織田信長の後詰めがある事もあって好転の糸口が全く掴めず、遂に織田家との講和を決意する。
講和にあたっては全権として安国寺恵瓊が差し向けられ、毛利側からは「五国(備中国、備後国、美作国、伯耆国、出雲国)割譲と引き替えに城兵の惣赦免」が求められたが、秀吉は更に清水宗治の切腹を加え、是を好まぬ毛利側が講和を一度は決裂させる。清水宗治自身は自らの首が城兵の命に代わるなら軽いものだと切腹の意志を硬く持ち、安国寺恵瓊の説得もあったが結局、清水宗治以下、自らの兄である清水宗知、家臣である難波伝兵衛と末近左衛門の首と引き替えに城兵の救命を求める嘆願書を毛利輝元に提出する。
が、六月三日夜、毛利方に明智光秀から本能寺の変成功の密書を携えた密偵が秀吉の手の者によって捉えられたとされる(本能寺の変は天正十年六月二日の事)。羽柴秀吉は信長の横死によって信長、並びに光秀の後詰めが消滅したという事実を必死に隠蔽し翌日、清水宗治の切腹は譲らぬものの割譲する領土を備中国、美作国、伯耆国の三国に譲歩し、毛利方もやむなく是を了承。上記の四名は小舟で秀吉の本陣に漕ぎ着け、杯を交わし舞を舞った後、切腹して果てた。清水宗治、
享年四十五。辞世の句は、
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して
本能寺の変の一報が毛利方に伝わったのはその後、清水宗治らが切腹した四日夕刻とされる。この報せを聞きつれ吉川元春は激怒し講和破棄を主張したが、小早川隆景が講和尊重を唱え陣中は真っ二つに割れる。
羽柴秀吉は五日の丸一日を毛利陣監視に費やすが、意見の集約と毛利輝元の決断が行われないと判断したその翌日、六日昼過ぎには備中高松城に一族衆の杉原家次を置いて迅速な全軍撤退を行い、山陽道を東に京都へと一路、ひた走るのである。
後世、この迅速な撤退作戦は中国大返しと称されるようになる。