背景
伊勢盛時(後世では一般的に北条早雲の名で知られる)は、下剋上によって伊豆や相模を支配下に置き、その嫡男・北条氏綱も勢力を拡大するが氏綱さらに嫡子・北条氏康、嫡孫・北条氏政ら歴代当主は敵対勢力に囲まれることとなる。
第一次北条包囲網
期間
1536〜1558年。
概要
1536年頃の氏綱は甲斐の武田信虎、駿河の今川氏輝、関東管領・上杉憲政、扇谷上杉家当主の上杉朝興さらに上総武田家の支援を受ける小弓公方・足利義明と敵対していた。
同年に今川家では氏輝が病死し弟の玄広恵探と栴岳承芳が家督を争う花倉の乱が発生。承芳改め今川義元が勝利し家督を継いだ。翌1537年には扇谷上杉家でも朝興が病死し嫡子・上杉朝定が家督を継いだ。義元と朝定の北条氏への姿勢は共に先代と同じでおり、氏綱は義元・信虎・憲政・朝定・義明による包囲網を敷かれることになるが、1538年に氏綱は古河公方・足利晴氏と共に第一次国府台の戦いで義明を討ち取り小弓公方を滅亡させて包囲網の一角を崩した。1541年に氏綱が没し嫡子・氏康が継いだ。同年の甲斐武田家では信虎が嫡子・武田晴信(信玄)に国を追われ当主の座を奪われた。
1545年、義元が晴信と共に駿河東部に侵攻。その後、義弟・北条綱成が守る河越城が義元と連携していた憲政や朝定に氏康との関係が悪化し反北条に転じた晴氏の大軍によって包囲され氏康は東西から挟撃される。しかし、晴信は信虎時代の外交方針を転換したことで憲政との関係が悪化していたため憲政の勢力伸長は望ましいものではなく、義元も尾張の織田信秀の攻略に専念したかったため両者とも対北条戦線の激化は望むところではなかった。そのため、晴信は義元と氏康を仲裁し、二正面作戦を避けたい氏康は盛時以来の駿河東部の領土を今川に返還する屈辱的条件を飲み武田・今川と和睦した。
これにより氏康は山内上杉・扇谷上杉・古河公方連合軍との戦いに専念できるようになり河越夜戦にて勝利。この戦いで朝定が陣没したため扇谷上杉家を滅亡した。山内上杉氏も長野吉業(業正の長男)らが戦死し大打撃を受けたが、1547年に晴信との信濃小田井原の戦いで惨敗しさらなる打撃を受けた。晴氏は1552年に北条氏出身の生母を持つ次男の義氏に公方の座を譲らされ隠居・幽閉された。その後、北条・武田・今川は甲相駿三国同盟を結成。これにより武田と今川の本格的な支持を得た氏康は晴信と共に憲政への攻勢を開始し武蔵や西上野を手中に収め憲政を追い詰め、1552年に憲政の本拠地の上野平井城を落とした。憲政は脱出に成功したがここに大名としての山内上杉氏は滅亡した。ちなみに1547年には越後守護代長尾家において当主の長尾晴景が隠居し弟の景虎が、1551年には尾張の織田弾正忠家当主・信秀が病死し嫡子・織田信長がそれぞれ家督を継承。そしてこの景虎と信長が北条・今川・武田の運命を揺るがすことになっていく。
参加勢力
第二次北条包囲網
期間
1561年〜1568年。
概要
憲政は1552年〜1558年の間に掛けて越後国主・長尾景虎(のちの上杉謙信)の庇護を受けて再起を図る。氏康は家督を嫡男・北条氏政へと譲り、北条軍は関東を制圧するかと予想された。
しかし、1560年に義元が信長に桶狭間の戦いで討たれ今川氏真が継いでから今川家の衰退が始まったが、これは今川と同盟を締結する北条が不利になることを意味していた。安房の里見義堯らの要請もあり景虎は憲政を担ぎ上げて北条に対する大規模攻勢を開始。これに長野業正・太田資正や佐竹義昭・義重父子らが呼応し古河城を落とし足利義氏を追い払い兄の足利藤氏を古河公方に擁立。景虎は北条氏の本拠地・小田原城を包囲するも、なかなか陥落せず、成田長泰(甲斐姫の祖父)の戦線離脱や補給隊が北条軍による襲撃に遭遇したりしたことにより、包囲戦は拮抗した。その最中、信玄が北条の要請を受けて上杉領の北信濃へと侵攻しようとしているという報告を受けた政虎は北条攻めを中断。信玄と雌雄を決するために北信濃へ出陣、これが第四次川中島の戦いへと繋がっていく。
景虎はその帰途、鶴岡八幡宮で憲政から上杉姓と偏諱を授かり憲政の養子として「上杉政虎」と改名し関東管領職と山内上杉家の家督も授けられた(のち足利義輝の偏諱を受けて輝虎に改名)。翌年にも輝虎が再び小田原を攻め、今川氏真は小田原に援軍を送ったが、その間に三河岡崎城主の松平元康が離反(三州錯乱)。のち元康は信長と清洲同盟を締結し「松平家康(のち徳川家康)」と改名し今川家と敵対関係となり三河統一戦を進めていった。
この家康の離反劇は遠江にも波及し井伊直親らも反乱(遠州惣劇)を起こし氏真は領内を纏めることに四苦八苦することになる。
参加勢力
- 近衛前久
- 上杉憲政(関東管領職と山内上杉氏当主の座を輝虎へ譲渡)
- 上杉輝虎(謙信)
- 足利藤氏(氏康により暗殺または処刑)
- 里見義堯
- 長野業正→業盛(業盛の代で、武田軍による攻勢により滅亡)
- 太田資正
- 小田氏治(のちに北条側へ寝返る)
- 佐竹義昭
- 宇都宮広綱
- 佐野昌綱(のちに北条側へ寝返る)
- 簗田晴助
- 上田朝直(のちに北条側へ寝返る)
- 成田長泰(のちに北条側へ寝返る)
等々
第三次北条包囲網
期間
1569〜1571年。
概要
今川家の家督を氏真が継いでから弱体化が著しくなっていたため、信玄は今川領を松平(徳川)や北条に占領されると武田領の背後を脅かされることになることを懸念した。そこで信玄は先手を打ち今川家との同盟破棄を考えるようになる。これに対し親今川派の嫡子・武田義信や重臣・飯富虎昌が反発。信玄は虎昌ら義信一派を粛清し義信を廃嫡し四男の武田勝頼を後継者に定めた。信玄は信長と同盟を締結し信長の養女を勝頼に娶せた。また信長と同盟している家康との間に密約を締結し今川領の駿河へと侵攻し駿河を占領した。氏真は掛川城へ逃走したが遠江を占領した徳川勢に包囲。氏真は家康と講和し掛川城を開城。正室・早川殿の実家である北条領へと亡命した。
しかし、これに反発した氏康・氏政親子は信玄との甲相同盟を破棄。氏康・氏政は新たに輝虎と「越相同盟」を締結し氏康の七男・三郎が越後に赴き謙信の養子となり上杉景虎を名乗った。前述した越相同盟の際に謙信に養子入りしていた)。また輝虎は信玄と和睦したことで、輝虎は背後の信玄や氏康親子の脅威がほぼない状態で北陸への侵攻が可能になった。氏康親子は家康と組んで信玄を牽制したが、信玄・家康両者と同盟を組んでいた信長が家康に圧力を掛けたため、家康は目立った軍事行動を取れなかった。また、前述した越相同盟も上杉が武田と和睦していたことからほぼ意味を成さなかった。さらに、信玄は義重や義堯などと組んで北条に対抗した。
これにより、北条は武田の包囲に失敗し、自身が包囲されることになった。その後、武田軍は北条軍との三増峠の戦いにおいて勝利した。
参加勢力
第四次北条包囲網
期間
1571〜1576年。
概要
1571年に氏康が没したが、氏政は甲相同盟を復活。既に有名無実化していた越相同盟は破綻し再び上杉とは敵対関係になり、氏政は輝虎改め謙信と度々干戈を交えた。
信玄の最晩年から武田と織田・徳川は完全に敵対関係となり信玄の後継者の勝頼も信長や家康と敵対していた。長篠の戦い後、謙信も信長と敵対するようになり、武田と上杉は再び和睦。これは、信長によって京を追われていた足利義昭の主導によって行われ、義昭は武田・上杉が対織田戦に集中することを望んだため、既存の武田と北条の同盟に上杉も加わり(甲越相三和)、上杉と北条は(表面上は)和睦した。
参加勢力
- 上杉謙信(のちに北条と表面上の和睦)
- 佐竹義重(一時的に、武田を仲介した北条との停戦が実現)
- 里見義堯→義弘(一時的に、武田を仲介した北条との停戦が実現。のちに再び北条と敵対するも和睦)
- 結城晴朝
- 宇都宮広綱
等々
第五次北条包囲網
期間
1578〜1582年。
概要
謙信は手取川の戦いで柴田勝家に勝利したものの、1579年に急逝。その後、上杉景勝と上杉景虎による御館の乱が勃発した。
この頃の氏政は、下野の宇都宮広綱との戦いにより景虎の支援ができずにいたため、武田に景虎支援を要求する。勝頼は北条と同盟を締結していたが上杉とも和睦していたこと、勝頼にすれば信長と家康に対抗するためには上杉と北条の協力は必要不可欠であった。上杉と北条の両者に対して友好的に接する必要があった勝頼は景勝と景虎の和睦を仲裁するために越後に赴いた。ところが、家康が武田領へと侵攻したことにより勝頼は武田領へ帰還したため景勝と景虎の間の和睦は破綻し、景虎は自害し、景勝が勝利した。また景虎を支援していた憲政も景勝に討たれた。
これにより、氏政は弟・景虎の自害を勝頼に責任転嫁し、甲相同盟は破綻。武田と北条は敵対関係となった。
これに対抗するため、勝頼は景勝との間に甲越同盟を締結。さらに義重との間に甲佐同盟が、里見義頼との間には甲房同盟が締結され義頼と同盟していた足利頼純(義明の次男)も加わった。これにより、武田・上杉・佐竹・里見らによる北条包囲網が結成された。しかし、氏政は武田対策で徳川・織田、対上杉対策で伊達輝宗や蘆名盛隆とも連携したため実質的に武田・上杉包囲網になった。
とはいえ上野方面では真田昌幸らの活躍もあり北条勢は劣勢に陥り、氏政は滅亡を覚悟する書状を信長に送るほどだった。1582年、北条は織田・徳川連合軍による甲州征伐に参戦し武田は滅亡。実質的に北条包囲網は崩壊した。
参加勢力
- 武田勝頼・信勝(織田・徳川・北条連合軍の攻勢によって滅亡)
- 上杉景勝
- 佐竹義重(織田を仲介し、北条と表面的な和睦をした)
- 宇都宮国綱
- 結城晴朝
- 佐野宗綱
- 里見義頼
- 足利頼純
- 足利義昭(直接関与はしていないが、武田・上杉を支持していた)
第六次北条包囲網
期間
1589〜90年。
概要
武田滅亡後、北条や(武田から自立した)真田は織田軍の関東方面軍団長の滝川一益に従った。しかし、信長が本能寺の変で横死したのを機に北条氏直は一益の本拠地である上野厩橋城を攻め神流川の戦いにて大破した。さらに家康や景勝とも天正壬午の乱にて激突した。しかし、家康との黒駒合戦にて敗北し、北条と徳川は同盟を復活させ家康の次女の督姫が氏直に嫁いだ。
その頃、織田政権を乗っ取った羽柴改め豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いなどを経て家康を最終的に臣従させ、四国征伐や九州征伐で長宗我部元親や島津義久を降伏させた。のち秀吉は惣無事令(大名間の私闘を禁止する法令)を発し、北条に臣従を求めたが氏政は拒否。その後北条氏邦の配下だった猪俣邦憲が真田領名胡桃城へと侵攻したため、秀吉は全国の大名に小田原攻めを命令。北条と同盟を締結していた家康や伊達政宗でさえ秀吉の命令に従ったため、北条氏政・氏直親子は降伏し、大名としての後北条氏は滅亡。
氏政とその弟・北条氏照は切腹させられ、氏直は出家して高野山へと追放させられた。
のち北条氏は江戸時代になり氏政・氏照の弟・北条氏規の系統が河内狭山藩主となり明治維新まで続いた。
参加勢力
等々