背景
伊勢盛時(後世では一般的に北条早雲の名で知られる)は、下剋上によって伊豆や相模を支配下に置き、その嫡男・北条氏綱も勢力を拡大した。だが氏綱の没後、その嫡男・北条氏康は敵対勢力に囲まれることとなる。
第一次北条包囲網
期間
1541〜1558年。
概要
今川義元と武田晴信(のちの信玄)が北条氏と敵対する中、上杉憲政と上杉朝定が和睦し、古河公方・足利晴氏を担ぎ上げて北条攻めを開始。大局的には北条が不利と見られた。
しかし、武田は信濃を攻略したかったため、古河公方勢力(特に信濃を巡って争っている上杉憲政)が北条領を占領することで後方の脅威が増加することは避けたかった。また、今川も尾張攻略に専念したかったため、後方の安定を望んでいた。そのため、武田は今川・北条の関係を仲裁し、北条が東駿河を今川に変換することで武田・今川は北条と和睦。
これにより北条は対古河公方勢力戦に専念できるようになり、河越城の戦いにて勝利。上杉朝定を討ち取り、上杉憲政や足利晴氏の勢力は衰退した。
参加勢力
第二次北条包囲網
期間
1561年〜1568年。
概要
河越城の戦いにおいて北条軍の勝利を間接的に支えた武田と今川は、既存の甲駿同盟に北条を加え、甲相駿三国同盟を結成。これにより武田と今川の本格的な支持を得た氏康は、上杉憲政を関東地方から追放。憲政は越後へと亡命し、長尾景虎(のちの上杉謙信)の庇護を受けて再起を図る。氏康は家督を嫡男・北条氏政へと譲り、北条軍は関東を制圧するかと予想された。
しかし、予想外の出来事が起きる。桶狭間の戦いにおける今川義元の討ち死ににより、今川は衰退。これは、今川と同盟を締結する北条が不利になることを意味していた。これにより、景虎は憲政を担ぎ上げて北条に対する大規模攻勢を開始。その最中、自身が大名へと返り咲くことは難関と悟った憲政は、上杉姓と諱の「政」の一字を景虎に授け、景虎は「上杉政虎」と改名。さらに、関東管領職をも政虎に授けた。政虎は北条氏の本拠地・小田原城を包囲するも、なかなか陥落せず、成田長泰(甲斐姫の祖父)の戦線離脱や補給隊が北条軍による襲撃に遭遇したりしたことにより、包囲戦は拮抗した。その最中、武田信玄が北条の要請を受けて上杉領へと侵攻しようとしているという報告を受けた政虎は、北条攻めを中断した(これが第四次川中島の戦いへと繋がっていく)。
その後も上杉政虎は輝虎と改名し、対北条戦を継続した。
参加勢力
- 近衛前久
- 上杉憲政(権力を長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎(謙信)へ譲渡)
- 上杉輝虎(謙信)
- 里見義堯
- 長野業正・業盛(業盛の代で、武田軍による攻勢により滅亡)
- 太田資正
- 小田氏治(のちに北条側へ寝返る)
- 佐竹義昭
- 宇都宮広綱
- 佐野昌綱(のちに北条側へ寝返る)
- 簗田晴助
- 上田朝直(のちに北条側へ寝返る)
- 成田長泰(のちに北条側へ寝返る)
等々
第三次北条包囲網
期間
1569〜1571年。
概要
前述した、桶狭間の戦いにおける今川の弱体化により、今川家重臣・松平元康が離反。織田信長との間に清洲同盟を締結し、徳川家康と改名した。義元の後継者・今川氏真は領内をまとめきれず、遠江にて大規模な反乱が勃発した。
もし、今川領を徳川や北条に占領されると武田領の背後は脅かされることになる。これを危惧した武田信玄は、織田と同盟を締結し徳川との間に密約を締結。今川領駿河へと侵攻し、当地域を占領した。さらに、徳川により遠江は占領され、今川氏真は徳川と講和し、北条領へと亡命した。
しかし、これに反発した北条氏康・氏政親子は武田との同盟を破棄。武田と北条が敵対したことを好機に、上杉輝虎は北条と同盟を締結し、武田と和睦した(これにより、上杉は背後の武田や北条の脅威がほぼない状態で北陸への侵攻が可能になった)。北条は徳川と組んで武田を牽制したが、武田・徳川両者と同盟を組んでいた織田信長が徳川に圧力を掛けたため、徳川は目立った軍事行動を取れなかった。また、前述した上杉と北条の同盟・甲相同盟も上杉が武田と和睦(甲越和与)していたことからほぼ意味を成さなかった。さらに、武田信玄は佐竹氏や里見氏などと組んで北条に対抗した。
これにより、北条は武田の包囲に失敗し、自身が包囲されることになった。その後、武田軍は北条軍に対して三増峠の戦いにおいて勝利した。
参加勢力
第四次北条包囲網
期間
1571〜1576年。
概要
対武田戦において大敗を喫した北条は、武田との再同盟を模索。氏康の没後、北条氏政は武田信玄との同盟を復活させた。これに伴い、越相同盟は破綻した。
これにより、北条は対上杉戦を再びすることになった。出家して謙信と号した上杉輝虎は、反北条勢力と共に対北条戦を再開したものの、戦線は拮抗した。
そんな中、信玄の嫡男・武田勝頼は織田信長と敵対していた。さらに、上杉謙信も信長と敵対するようになり、武田と上杉は再び和睦。これは、信長によって京を追われていた室町将軍・足利義昭の主導によって行われ、義昭は武田・上杉が対織田戦に集中することを望んだため、既存の武田と北条の同盟に上杉も加わり(甲越相三和)、上杉と北条は(表面上は)和睦した。
参加勢力
- 上杉謙信(のちに北条と表面上の和睦)
- 佐竹義重(一時的に、武田を仲介した北条との停戦が実現)
- 里見義堯・義弘(一時的に、武田を仲介した北条との停戦が実現。のちに再び北条と敵対するも和睦)
- 結城晴朝
- 宇都宮広綱
等々
第五次北条包囲網
期間
1578〜1582年。
概要
上杉謙信は対織田戦に勝利したものの、信長を滅ぼせないまま病没。その後、謙信の甥にして養子にして後継者・上杉景勝に対して上杉景虎が反乱(御館の乱)を起こした(上杉景虎は北条氏康の七男。前述した越相同盟の際に謙信に養子入りしていた)。
北条氏政は、対宇都宮戦により景虎の支援ができずにいたため、武田に景虎支援を要求する。武田勝頼は北条と同盟を締結していたが、上杉とも和睦していたため、上杉と北条の両者に対して友好的に接する必要があった(さらに、勝頼の宿敵・織田信長に対抗するためには上杉と北条の協力は必要不可欠であった)。そのため、勝頼は景勝と景虎の和睦を仲裁した。だが、信長の同盟者・徳川家康が武田領へと侵攻したことにより、勝頼は上杉領越後を離れねばならなくなった。その後、景勝と景虎の間の和睦は破綻し、景虎は自害し、景勝が勝利した。
これにより、氏政は弟・景虎の自害を勝頼に責任転嫁し、甲相同盟は破綻。武田と北条は敵対関係となった。
これに対抗するため、勝頼は上杉景勝との間に甲越同盟を締結。さらに佐竹義重との間に甲佐同盟が、里見義頼との間には甲房同盟が締結された。これにより、武田・上杉・佐竹・里見らによる北条包囲網が結成された。だが、氏政は家督を嫡男・氏直に譲り、徳川や織田と同盟を締結し、北条包囲網に対抗した。
武田家重臣・真田昌幸らの活躍もあり北条勢は劣勢に陥り、氏政は滅亡を覚悟する書状を信長に送るほどだった。だが、北条は織田・徳川連合軍による甲州征伐に参戦し、武田を滅ぼしたため、実質的に北条包囲網は崩壊した。
参加勢力
- 武田勝頼・信勝(織田・徳川・北条連合軍の攻勢によって滅亡)
- 上杉景勝
- 佐竹義重(織田を仲介し、北条と表面的な和睦をした)
- 宇都宮国綱
- 結城晴朝
- 佐野宗綱
- 里見義頼
- 足利義昭(直接関与はしていないが、武田・上杉を支持していた)
第六次北条包囲網
期間
1590年。
概要
武田滅亡後に、織田信長が横死。これにより織田家は弱体化したため、北条は織田との同盟を破棄して、上野に駐屯していた織田家重臣・滝川一益を撃退。さらに徳川との同盟も破棄し、天正壬午の乱にて徳川家康と激突した。家康は旧武田家臣の大半を味方につけ、黒駒合戦にて北条軍に対して勝利。その後、北条と徳川は同盟を復活させ、両者は旧武田家重臣・真田昌幸の領土へと侵攻するも敗北。
その頃、織田政権を乗っ取った羽柴改め豊臣秀吉は徳川、上杉、毛利、長宗我部、島津や真田などといった大名をほぼ全て臣従させた。
だが、北条は秀吉への臣従を拒否し、惣無事令(大名間の私闘を禁止する法令)を無視した北条家臣・猪俣邦憲が真田領名胡桃城へと侵攻したため、秀吉は全国の大名に北条征伐を命令。北条と同盟を締結していた徳川家康や伊達政宗でさえ秀吉の命令に従ったため、北条氏政・氏直親子は降伏し、大名としての後北条氏は滅亡。
氏政とその弟・北条氏照は切腹させられ、氏直は出家して高野山へと追放させられた。
参加勢力
等々