長野業盛
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ながのなりもり
上野国(群馬県)の戦国武将。長野業正の次男。父の死後、上野攻略を企む武田信玄に徹底抗戦を挑むが、衆寡敵せず自害した。(1544or1548〜1566)
「上州の黄斑」こと長野業正の次男。名は氏業とも。
生年は天文17年(1548年)とされてきたが天文13年(1544年)説が有力視されている。
長兄の吉業が河越夜戦で戦死したため嫡子となる。
永禄4年(1561年)に父が病没すると、業盛は14歳(19歳とも)の若さで家督を継ぎ、箕輪城主となる。
業盛も父に劣らず武勇に優れていたと言われる。しかし、武田軍を何度も撃退した業正の死は、箕輪衆にとっては大きな痛手であった。
業正の死を知った武田信玄は、箕輪城攻略を本格化させ、倉賀野・安中・松井田など長野方の重要な城を切り崩し、箕輪城を孤立させる作戦に出た。やがて、支城からの援軍もなくなり、箕輪勢は攻め寄せる武田軍3万5000人に対し、わずかに1500人で抗戦。
城主業盛はよく防戦したが、ついに永禄9年(1566)9月、武田軍の猛攻のなか、城内御前曲輪の持仏堂で一族とともに自害したと伝えられている。享年19歳または23歳。
辞世の句として「春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る箕輪の山里」という一首が伝わっている。
在原業平の子孫とされる上州長野氏は業盛の代で滅亡したが、叔父・業親の子という伝蔵(業実)は、武田氏滅亡後に徳川四天王の一人で箕輪を領し高崎城を築いた井伊直政の家臣となって4000石を有した。直政が関ヶ原の戦い後に高崎から近江国佐和山に移封されると同行し、佐和山藩(のち彦根藩)の次席家老を務めた。直政の子孫で幕末期の大老である井伊直弼の師とされる長野主膳は同じ長野姓だが上州長野氏の系統ではない。
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