上泉信綱
かみいずみのぶつな
塚原卜伝と並んで戦国時代最強の剣豪とされ、広く剣聖と称される。日本剣術史に比類なき影響を与えた人物。
兵法家として陰流・香取神道流・念流などの諸流派を学び、特に陰流の奥源を究め、新陰流を大成した。疋田豊五郎(疋田景兼)が発行した伝書では愛洲小七郎宗通(愛洲元香斎)より陰流の奥義を伝授されたとされる。
印可を与えた門下には新陰流の正統後継者とされた柳生宗厳(柳生石舟斎)や宝蔵院流槍術の祖・胤栄、タイ捨流の丸目長恵、疋田陰流の疋田景兼などがいる。
また、長恵と共に「剣豪将軍」の異名で知られる室町幕府第13代将軍・足利義輝に剣術を教えたとされる。
江戸時代、柳生宗厳が徳川家康の師範に息子柳生宗矩を推挙したことで、新陰流は「天下兵法の大家」と称されるほどの隆盛を誇った。
大胡氏の一族である上泉家の出身で、上野国(群馬県)桂萱郷上泉村(前橋市)に生まれる。生年は不明だが、柳生厳長は1508年と推測している。
幼名は秀長だったが、後に秀綱、更には信綱と改める。
没年も1577年もしくは1582年と諸説あり。
「上泉信綱」の名で知られるが、資料では「大胡武蔵守(おおご むさしのかみ)」の名で記録されていることが多い。また「伊勢守(いせのかみ)」という名を使用したとされるが資料は見つかっていない。
上杉謙信の傘下にあった箕輪城の長野業正・長野業盛親子に仕え、武田氏や北条氏との戦に参加して活躍し、謙信の関東出兵でも一度失った大胡城の奪還に貢献するなど優れた武勇を誇った。
『長野十六本槍』の一人に数えられ、中でも信綱は『上野国一本槍』の異名で知られていた。
1566年、武田信玄の総攻撃により箕輪城は落城し、長野業盛は自刃して果てた。
武田信玄は長野氏旧臣を取り立て、秀綱にも声がかかったが武芸の修行のため諸国を巡りたいとしてこれを固辞する。武田信玄は他家に仕官しないことを条件に許可し、自身の名から「信」の字を与え、秀綱は諱を信綱と改めた。
新陰流普及のため諸国を巡った。
伊勢神宮へ向けて出発し、北畠具教を訪ねた後、大和国(奈良県)へ向かう。
臨済宗妙心寺派の大寺院『妙興報恩禅寺(妙興寺)』に彼の修道跡の碑があり、彼が考案した無刀取り発祥の地となっている。
興福寺(奈良市)滞在中、柳生宗厳が訪れて門下に入り、柳生の里(奈良市柳生町)へ信綱一行を招いた。信綱はここを拠点に畿内各地で兵法指南を行った。
当時は剣術の稽古において木刀を使用していたこともあり、稽古中の怪我や、最悪の場合死亡事故なども頻繁に起こっていた。
信綱は稽古での負傷を避けるため、割った竹を獣のなめし皮で包んだ「袋竹刀(ふくろしない)」を開発し、これが現在の竹刀の原型になったと言われている。
信綱一行が尾張のとある村を訪れた際、賊が村の子供を人質に立て篭もっている現場に遭遇した。
助けようにも近づけば興奮した賊に子供が殺されかねないため手を出せずにいたが、信綱は同じく現場に居合わせた僧侶から服を借り、頭髪をその場で丸めて坊主に変装。握り飯を持って賊に近づき、その姿に油断した賊が警戒を解いたところをすかさず取り押さえたという。
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