創作作品における柳生十兵衛(曖昧さ回避)
時代劇や邦画など、昭和の頃から様々な作品で題材にされている他、彼の名前や一部特徴を引き継いだ漫画やアニメのキャラクターも数多く存在する。しかし何故か女性率が高い。
同名
- 『百花繚乱サムライガールズ』の登場人物。 → 柳生十兵衛(百花繚乱)
- 『サムライスピリッツ』の登場人物。 → 柳生十兵衛(侍魂)
- 『鬼武者』シリーズに登場する柳生一族党首たち。 → 下記にて解説
- 『YAIBA』の登場人物。 → 柳生十兵衛光厳
- 『銀魂』の登場人物。 → 柳生十兵衛(銀魂)
- 『闇の土鬼』の登場人物。
- 『ハレンチ学園』のヒロイン柳生みつ子、第二部で先祖の柳生十兵衛三厳の名を襲名する。
- 『シノビガミ』の流派の一つ、鞍馬神流の頭領。柳生三厳名義。本人か否かは不明
その他
- 『銀魂』の登場人物。 → 柳生九兵衛
- 『十兵衛ちゃん』の登場人物。 → 十兵衛ちゃん/菜ノ花自由
- 『地獄甲子園』の登場人物。→ 野球十兵衛
- 『Fateシリーズ』にて存在が示唆されているキャラクター。→ 柳生十兵衛(Fate)
史実の柳生十兵衛三厳
「弱冠にして天資甚だ梟雄、早く新陰の術に達し、其の書を術作したまう」(「玉栄拾遺」)
新陰流免許皆伝者(宗矩は柳生新陰流とは名乗っていない)・幕府兵法(剣術のこと)指南役の柳生宗矩の長男。
幼名は七郎で三厳は諱にあたり、よく知られた十兵衛の呼び名は通称である。
後世の脚色が多く、はっきりとした経歴は不明。
以下の経歴は文献に残っているものを参考にしている。
経歴
13歳で徳川家光の小姓となり、寵遇を得たのだが、20歳の時に家光の勘気を蒙り(理由は不明だが父である宗矩や柳生家に何の咎もおよんでいないことから軽罪であったと見られる)蟄居を命じられ一時小田原藩に御預けの身となる。
勘気自体は1年後には解けていた様だが再出仕はせず、以降11年間柳生に引き篭っていた。
なおその間諸国を遍歴した、もしくは幕府隠密として諸国を検分したと言われているが、伝説に過ぎず講談や軍記物、芝居、映画などで創作された話が多く、十兵衛本人はあくまで剣術修行に専念していたと書き残している。
30歳で江戸に戻り、宗矩より改めて相伝を受け、それらの至極を伝書にまとめる。
その後、せっかく書いた伝書『昔飛衛という者あり』を焼却するように宗矩より命じられたり、宗矩の友人であり禅の師である沢庵和尚から助言を受けて父の真意を悟ったりと紆余曲折を経て、最終的に宗矩から印可(流儀の修了証書のようなもの)を認められる。
31歳の時異母弟友矩が病を得て職を辞したことから家光への再出仕が認められ江戸城御書院番に任ぜられる。
32歳となった寛永16年(1639年)2月14日、家光の御前で宗矩の筆頭高弟・木村助九郎友重、同母弟宗冬に兵法を披露する。
寛永19年(1642年)35歳の時に、引き篭っていた間に収集した資料やその間に書き溜めていた草稿などを元に流祖上泉信綱以来の術理を纏め上げた代表作『月の抄』を著述している。
1646年(正保3年)に父 柳生宗矩が亡くなった際、家光の命で家督を継いだものの、知行を同母弟の宗冬と分けあったため(宗矩が返上したのが理由)大名にはなれず8300石の旗本となる。
柳生家の家譜によると、若い頃は「梟雄」にして「強勇絶倫」で、力で人々を畏れさせ従わせるヤバイ人間(加えて酒好きで酒乱)だったのが、この頃には寛容な性格に変貌していたらしい。
宗矩が生前危惧していた政務にも励み、質実剛健な家風を守り、奴婢にも憐れみをかけて処罰すらしなかったともある。
その後役目を辞して再び柳生庄に引き篭ったとも言われるが、大名の門弟に伝書を与えたり、主君家光からの兵法上の相談に乗ったりした様子が記された当時の書簡も残っており、実態は不明。
1650年(慶安3年)鷹狩りに出かけた先の弓淵(早世した異母弟友矩の遺領)で急死、43年の短い生涯を終えた。娘が2人いただけだったため無嗣改易になりかねなかったが、家光の裁定により「宗矩の長年の功績により」宗冬が後を継ぐことになった。
隻眼の剣豪
隻眼の剣豪として抜群の知名度を誇り、眼帯がトレードマークとなっているが、当時の肖像画に描かれた三厳は隻眼ではなく、同時代の資料にも隻眼や眼帯をつけていたとするものはない。
剣豪として名高いが、信頼できる試合や実戦の記録はなく、わずかに本人の死後数十年たって作られた柳生家の家譜等の中で、山賊や盗賊を退治した逸話が紹介されている程度。
そもそもこの時代の剣豪で、信頼できる試合の記録が残ってる者の方が希である。
一方で前述の通り、十兵衛を主人公とする物語は盛んに作られ、フィクションの中で活躍が盛られまくってきた剣豪という点では宮本武蔵と双璧である。
後世の柳生一門の伝書等では、十兵衛が考案したという新陰流を応用した杖術や「三の勝理」と呼ばれるカウンター戦法について記されるなど、(江戸柳生系の)新陰流を完成させた人物として位置づけられており、創作のベースとなった将軍家指南役の嫡男で素行に問題はあるが剣術は達人という人物像は講談のヒーローとして確立する以前に存在していたようである。
余談
十兵衛に限らず、この時代の柳生家の嫡男は不遇または不幸な運命に見舞われることが多い。
- 柳生厳勝
1571(元亀2)年の大和辰市城攻めに従軍したが、負傷し再起不能となり、柳生庄に籠って不遇の生涯を送った。
- 柳生久三郎
厳勝の嫡男。
甲斐甲府城主・浅野幸長に仕えていたが、1597(慶長2)年に朝鮮出兵に従軍し蔚山で21歳で討ち死にした。
- 柳生清厳
厳勝の次男・兵庫助利厳の嫡男。
病を得たことで将来に絶望し、1637(寛永14)年に起きた島原の乱に個人で幕府軍に参戦し23歳で討ち死にした。
- 柳生宗春
十兵衛の弟・宗冬の嫡男。
家督相続前に病を得て27歳で急死した。宗春の死に気落ちしたのか宗冬も3か月後に病死した。
- 柳生宗方
宗春の長男。宗春の跡を継いだ弟の宗在が養嗣子とした。
養父・宗在の代まで務めた将軍家兵法指南役を継ぐことができず、子も娘2人が夭折したことで他家から養子を入れることになり(それも3人入れて2人が廃嫡・早世)、宗矩以来の血筋を途絶えさせることになってしまった。
柳生十兵衛(鬼武者)
CAPCOM発売の戦国サバイバルアクションゲーム『鬼武者』シリーズの登場人物たち。
この作品における十兵衛は「柳生一族の代々の党首に付けられる名前」として登場している。
初登場は『鬼武者2』の主人公・柳生十兵衛宗厳から。(後の柳生新陰流開祖である柳生石舟斎)
キャラクターモデルに既に故人である俳優の松田優作を起用したことが話題になった。