史実の柳生十兵衛三厳
「弱冠にして天資甚だ梟雄、早く新陰の術に達し、其の書を術作したまう」(「玉栄拾遺」)
新陰流免許皆伝者(宗矩は柳生新陰流とは名乗っていない)・幕府兵法(剣術のこと)指南役の柳生宗矩の長男。
幼名は七郎で三厳は諱にあたり、よく知られた十兵衛の呼び名は通称である。
後世の脚色が多く、はっきりとした経歴は不明。
以下の経歴は文献に残っているものを参考にしている。
経歴
13歳で徳川家光の小姓となり、寵遇を得たのだが、20歳の時に家光の勘気を蒙り(理由は不明)蟄居を命じられ一時小田原藩に御預けの身となる。
勘気自体は1年後には解けていた様だが再出仕はせず、以降11年間柳生に引き篭っていた。
なおその間諸国を遍歴した、もしくは幕府隠密として諸国を検分したと言われているが、伝説に過ぎず講談や軍記物、芝居、映画などで創作された話が多く、十兵衛本人はあくまで剣術修行に専念していたと書き残している。
30歳で江戸に戻り、宗矩より改めて相伝を受け、それらの至極を伝書にまとめる。
その後、せっかく書いた伝書を焼却するように宗矩より命じられたり、宗矩の師である沢庵和尚から助言を受けて父の真意を悟ったりと紆余曲折を経て、最終的に宗矩から印可(流儀の修了証書のようなもの)を認められる。
31歳の時異母弟友矩が病を得て職を辞したことから家光への再出仕が認められ江戸城御書院番に任ぜられる。
32歳となった寛永16年(1639年)2月14日、家光の御前で宗矩の筆頭高弟・木村助九郎友重、同母弟宗冬に兵法を披露する。
寛永19年(1642年)35歳の時に、引き篭っていた間に収集した資料やその間に書き溜めていた草稿などを元に流祖上泉信綱以来の術理を纏め上げた代表作『月の抄』を著述している。
1646年(正保3年)に父 柳生宗矩が亡くなった際、家光の命で家督を継いだものの、知行を同母弟の宗冬と分けあったため(宗矩が返上したのが理由)大名にはなれず8300石の旗本となる。
柳生家の家譜によると、若い頃は「梟雄」にして「強勇絶倫」で、力で人々を畏れさせ従わせるヤバイ人間(加えて酒好きで酒乱)だったのが、この頃には寛容な性格に変貌していたらしい。
宗矩が生前危惧していた政務にも励み、質実剛健な家風を守り、奴婢にも憐れみをかけて処罰すらしなかったともある。
その後役目を辞して再び柳生庄に引き篭ったとも言われるが、大名の門弟に伝書を与えたり、主君家光からの兵法上の相談に乗ったりした様子が記された当時の書簡も残っており、実態は不明。
1650年(慶安3年)鷹狩りに出かけた先の弓淵(早世した異母弟友矩の遺領)で急死、43年の短い生涯を終えた。娘が2人いただけだったため無嗣改易になりかねなかったが、家光の裁定により「宗矩の長年の功績により」宗冬が後を継ぐことになった。
隻眼の剣豪
隻眼の剣豪として抜群の知名度を誇り、眼帯がトレードマークとなっているが、当時の肖像画に描かれた三厳は隻眼ではなく、同時代の資料にも隻眼や眼帯をつけていたとするものはない。
剣豪として名高いが、信頼できる試合や実戦の記録はなく、わずかに本人の死後数十年たって作られた柳生家の家譜等の中で、山賊や盗賊を退治した逸話が紹介されている程度。
そもそもこの時代の剣豪で、信頼できる試合の記録が残ってる者の方が希である。
一方で前述の通り、十兵衛を主人公とする物語は盛んに作られ、フィクションの中で活躍が盛られまくってきた剣豪という点では宮本武蔵と双璧である。
後世の柳生一門の伝書等では、十兵衛が考案したという新陰流を応用した杖術や「三の勝理」と呼ばれるカウンター戦法について記されるなど、(江戸柳生系の)新陰流を完成させた人物として位置づけられており、創作のベースとなった将軍家指南役の嫡男で素行に問題はあるが剣術は達人という人物像は講談のヒーローとして確立する以前に存在していたようである。
余談
十兵衛に限らず、この時代の柳生家の嫡男は不遇または不幸な運命に見舞われることが多い。
- 柳生厳勝
1571(元亀2)年の大和辰市城攻めに従軍したが、負傷し再起不能となり、柳生庄に籠って不遇の生涯を送った。
- 柳生久三郎
甲斐甲府城主・浅野幸長に仕えていたが、1597(慶長2)年に朝鮮出兵に従軍し蔚山で21歳で討ち死にした。
- 柳生清厳
病を得たことで将来に絶望し、1637(寛永14)年に起きた島原の乱に個人で幕府軍に参戦し23歳で討ち死にした。
- 柳生宗春
家督相続前に病を得て27歳で急死した。宗春の死に気落ちしたのか宗冬も3か月後に病死した。
- 柳生宗方
養父・宗在の代まで務めた将軍家兵法指南役を継ぐことができず、子も娘2人が夭折したことで他家から養子を入れることになり(それも3人入れて2人が廃嫡・早世)、宗矩以来の血筋を途絶えさせることになってしまった。
創作作品における柳生十兵衛
時代劇や邦画など、昭和の頃から様々な作品で題材にされている他、彼の名前や一部特徴を引き継いだ漫画やアニメのキャラクターも数多く存在する。しかし何故か女性率が高い。
同名
- 『百花繚乱サムライガールズ』の登場人物。 → 下記にて解説
- 『サムライスピリッツ』の登場人物。 → 下記にて解説
- 『鬼武者』シリーズに登場する柳生一族党首たち。 → 下記にて解説
- 『YAIBA』の登場人物。 → 柳生十兵衛光厳
- 『銀魂』の登場人物。 → 柳生十兵衛(銀魂)
- 『闇の土鬼』の登場人物。
- 『ハレンチ学園』のヒロイン柳生みつ子、第二部で先祖の柳生十兵衛三厳の名を襲名する。
- 『シノビガミ』の流派の一つ、鞍馬神流の頭領。柳生三厳名義。本人か否かは不明
その他
柳生十兵衛(百花繚乱サムライガールズ)
CV:悠木碧
HJ文庫のライトノベル『百花繚乱サムライガールズ』の登場人物。
主人公、柳生宗朗のもとに突然落ちてきた謎の赤毛の美少女。
子供っぽいが宗朗とキスをすると剣豪の力を覚醒させ、剣の腕前を見せる。
柳生十兵衛(サムライスピリッツ)
「柳生の太刀筋、お主では見切れぬわ!」
生年月日 | 寛延二年(1749年)三月六日 |
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出身地 | 土佐 |
身長 | 六尺一寸 (185cm) |
体重 | 十九貫目 (71kg) |
血ノ | O型 |
剣の道について | 柳生新陰流を極めることにある |
武器銘 | 大和守 虎鉄・助広 |
流派 | 柳生新陰流・改 |
好きなもの | あんみつ |
嫌いなもの | 軟弱な男子 |
趣向 | 斬ること |
コンプレックス | 斬った後に罪悪感を感じてしまうこと |
宝物 | 武士道 |
尊敬する人 | 先祖 (柳生宗矩) |
好みのタイプ | 年下の若い娘さん |
特技 | スズメの餌付け |
平和を感じるとき | スズメが餌をついばむ瞬間 |
サムスピの十兵衛は名前こそ同じだが、服部半蔵と同様に、名前を引き継いだ後世の別人と言う設定になっている。
(史実における本家の十兵衛の没後からおよそ100年後の1749年生まれ)
CVは何と、あの次元大介と同じ小林清志氏(真~零SP、閃にて担当。2019年版では中博史氏に変更)。
真サムライスピリッツのOPで披露される渋い口上も、小林氏によるもの。必聴モンの渋さ。
(以下ニコニコMUGENwikiより抜粋)
柳生新陰流により武術制覇を目指す、二刀流の名手。
何よりも武士道を重んじ、厳しい武者修行に身を置き続けることこそ天命と信じる。
土佐の身分の低い武家の出だが、柳生宗矩に剣才を見込まれて引き取られ、新陰流を叩き込まれた。
(こちらも、史実にある柳生宗厳 (石舟斎) の五男・柳生但馬守宗矩とは同姓同名の別人。ただし、将軍家剣術指南役ではある)
家族は豊臣方の残党によって散りぢりになってしまったらしい。
10歳の頃、修行中に養父・宗矩に左目を潰されたため、左目に鍔の眼帯をしている。
免許を皆伝されたかどうかは定かではないが、二刀を用いる 「柳生新陰流・改」 を考案して自ら使いこなし、
直参の隠密剣士として幕府に仕え、諸藩や異界の者の動きに目を光らせている。
同じ幕府に仕える服部半蔵とは親交があり、黒子とも親しい。
徳川慶寅の剣の師でもあり、かつて覇王丸を破ったこともあるほどの手練である。
斬サムには登場しなかったが、公式小説によると将軍直々の命により腐敗官僚排除を行っていたからだったとか。
「真」では「蒼殊魂」という特別な魂の持主であるため、羅将神ミヅキに狙われることに。
性能的にはシリーズ通して中堅どころをキープ。
主人公ではないが変則的な3種の神器を揃えており、中距離から牽制をかけながら闘うスタイルがメイン。
しかし攻め手が決して豊富ではないので、読まれるとキツい一面を持つ。また作品によっては怒りゲージが貯まりにくい為、攻撃力をブーストし難いと言う欠点も。
元SNKの広告塔?
何かとシブい要素が目立つ十兵衛だが、実は旧SNKのサイトでは柳生課長というキャラ設定が与えられ、世知辛い現代社会の波にもまれる姿に涙と笑いを誘った。
柳生十兵衛(鬼武者)
CAPCOM発売の戦国サバイバルアクションゲーム『鬼武者』シリーズの登場人物たち。
この作品における十兵衛は「柳生一族の代々の党首に付けられる名前」として登場している。
初登場は『鬼武者2』の主人公・柳生十兵衛宗厳から。(後の柳生新陰流開祖である柳生石舟斎)
キャラクターモデルに既に故人である俳優の松田優作を起用したことが話題になった。