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柳生宗冬

やぎゅうむねふゆ

柳生宗冬とは江戸時代の武将。剣豪としては影が薄く、大名柳生家の2代目当主としての方が有名。
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生没年 1613(慶長18)年~1673(延宝3)年


大和柳生藩主にして、徳川家康の代から兵法指南役として仕えた柳生宗矩の三男。同母兄に剣豪として有名な十兵衛三厳、異母兄に友矩、異母弟に柳生家の菩提寺・芳徳寺の開基となった列堂義仙がいる。


前半生編集

1628(寛永5)年、三代将軍・徳川家光に小姓として仕え信任を得る。

歴史に名を遺すほどの剣豪だった十兵衛と比べて、病弱だったため剣の腕は劣るところがあったが、人格面で評価されており(十兵衛は大酒飲みで粗暴な面があり、家光の怒りを買って柳生庄で蟄居する羽目になったことがある)、1646(正保3)年に父・宗矩が死に際し12300石の領地の返納を申し出、改めて柳生家に与えられた際に4千石を分知されることになった(ただし十兵衛が相続したのが8300石だったため、柳生本家は旗本落ちすることになった)。


本家相続編集

1650(慶安3)年、十兵衛が柳生庄で急死する。嫡男が無く、友矩もすでに亡く(1639年没)、宗冬もまた別家を立てていた以上、柳生本家は無嗣改易となるところだったが、家光の裁定により「宗矩の長年の功に免じて」宗冬が4千石を返上したうえで、柳生本家を相続することが命じられた。

1656(明暦2)年、家光の跡を継いだ四代将軍・家綱の兵法指南役となり、翌年には従五位下飛騨守に任官。そして1668(寛文8)年、1700石の加増を得て1万石となり、正式に大名家へと復帰することになった。

晩年は評判が高かった嫡男の宗春に先立たれ、その心痛から宗春の死から3か月後の1675(延宝3)年4月に宗冬もこの世を去った。

柳生家は次男の宗在が継ぎ、その後途中養子が入ったことで宗矩以来の血筋は途絶えるものの、大名家として柳生家は明治維新まで存続することとなった。


人物編集

異母兄弟ではあるが次兄の友矩と仲が良く、自らの著書にその言行を書きとどめている。

一方で弟の義仙とはそりが合わないところがあったようで、自身の死の間際に際し長く寺を留守にしていた義仙について「義仙を追放、もしくは殺して、別の者に芳徳寺を任せるように」と遺している。義仙が不在にしていたのは、この後京都大徳寺の住持になっていることから修業のためと考えられるが、芳徳寺建立が家光の許可を得たものだったため、宗冬からすれば不在にしているのは、「将軍の遺命を軽んじている」と幕府に取られかねず、下手をすれば改易・御家断絶という最悪の結果をもたらしかねないと思ったのかもしれない。


一方で剣に関しては、宗矩と立ち会って負けたときに「もっと竹刀が長ければ勝てたのに」と愚痴ったところ宗矩にフルボッコにされた、家光の命で尾張柳生家の柳生厳包と試合をした際に親指を砕かれて負けた、など情けない逸話が残っているが、真偽不明の内容が多い。

特に後者については、江戸時代に記された資料には記載がなく、初出は当時の尾張柳生家当主が1957年に記した『正傳新陰流』と尾張柳生家に伝わる口伝として紹介されている。

また厳包と立ち会ったとされる日の8日後に家光と諸大名の前で兵法を披露しており、指が砕かれた状態でそのようなことはできないことから偽作の可能性が高い。


なお史実においては四代将軍徳川家綱の兵法指南役となり、宗矩の死後空位になっていた将軍家剣術指南役の座に返り咲いている為、一定以上の力量にはなっていたと思われる。(家光は生涯、宗矩以外の師を持たず、十兵衛は若くして急死したため将軍家剣術指南役にはなれていない)



関連タグ編集

江戸時代 柳生宗矩 柳生十兵衛

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